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好き嫌いを聞かれると怒る子供

子供の頃、好き嫌いをたずねられるのがイヤだった。特に「どれが好き?」と選択を促されるのがイヤだった。それがイヤだったとわかるのは当時私がそうたずねられてイライラしてしまって答えないとか、声をあげて怒り出すといった挙動があったからだ。そしてなぜイヤだったかと言えば、似たようなものの中でどれが自分の好みなのかを決めることを子供の私自身がひどく重たく受け止めていたからである。

例えば、保護者が「赤い服と青い服、どちらが無難?」と聞けばたぶんそれほどは情緒的に成らなかっただろうと思うのだが、この質問と同じ意味で「赤と青、どっちが好き?」という質問を投げてくる人がいると、まず私の中で混乱が生じて、次にそれがイライラやカンシャクになって現れる。なぜイライラやカンシャクになるかというと、何が好きで何が嫌いかというのは私の内面奥深くに関わる重大な決断であるはず(だと私が勝手に思い込んでいる)のに、相手があまりにも気軽に、即座に回答可能なことのようにたずねてくるからである。言い換えれば、その質問は内面を土足で踏み荒らすような不躾(ぶしつけ)なものに私には思えたからである。

したがって、私は好き嫌いをたずねられるとひどく不機嫌になる子供であった。

しかし、それは普通の人が取る態度でもないし、まして多数派の人の解釈でもない。それらが事実だとわかったのはずっと後になって、経験を積んでからだった。例えば、「どれが好き?」というのは何か相手にわからない私の都合を選択に反映させるためになされる場合もあれば、ほとんど同じ選択肢に対して最後に本人に決めさせるというごく形式的な選択もある。そのような質問で言質(げんち)を取られたりすることも原則無い。なぜそれを選んだのか、なぜ他を選ばなかったのかと理由を深堀りされることもあまりないだろう。だから、もっとリラックスして選択するか、「一番安いのにして」とか「一番左にあるヤツにして」とか言ってやり過ごしたってよかったし、今後も相手の問いかけの温度感に対してはそうやって選択することが適切な場合も多いだろう。要するに、私は考えすぎだったし、なぜ考えすぎだったかと言えば、すべてを恐れていたからだ。自分自身の好き嫌いがハッキリ定まっていないことに対する劣等感もあったし、それをさらけだすことを恐れたし、今した選択がさっきの選択と一貫性が無いことも恐れたし、またその問いかけによって自分が何か選択した責任を負わされることも恐れていた。とにかく、怖くて怯えていたのだ。

好き嫌いとは不思議なものである。それは私自身の内面の一番奥にある感受性であり、もっともプライベートな領域であり、本当に親密な他人に対して以外は決して明らかにすべきでないこと、みだりにひけらかすのはむしろ他人にとっても無礼なことのように私には思われた。また、もし他人に敢えて見せるのならば、一定の美しい一貫性をもった「美学」としてお見せしなければならないかのように思っていた。例えば、「性癖」で似たような感覚を持っている方もいるかもしれない。

一方、好き嫌いはパブリックな自己紹介の一部として、まったく形式的で外面的なもの、例えば「趣味は映画鑑賞です」とか「テニスが好きです」とかそういうものだとも捉えられている。これはわずかな人にしか言えない秘密どころか、むしろ多くの人に知ってもらうべきインターフェイスとしての好き嫌いだろう。

この内面の好き嫌いと外面の好き嫌いとはどこかでつながっているのだろうか? それともパッチリと分けなければならないのだろうか? 処世として、個別の場面ではパッチリ分けておいた方がよいだろうが、長期的にみて内面の好き嫌いが外面の好き嫌いと何か対応関係を持ったりすることはあるのだろうか。その妥協点はいまだにわからないし、悩めるところでもある。

(1,574字、2024.05.09)

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