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行為の可能性と行為の正当性

上記の記事では、私の始めた行為がよく「唐突」「突然」「いきなり」という評価をもらう、といった現象について説明した。例えば、私は去年(2023年)に或るボードゲームを始めたのだが、それを周囲には唐突にみえた。説明を求められれば、私はキッカケとして、アニメ「響け!ユーフォニアム」を見て感銘を受けたからだと応えることになるのだが、これもまた意味不明だろう。つまり、仮に私がそのアニメを見ていることを事前に知っていても、そのゲームを始めることはまったく予測不能だからである。一方、例えばもし私が「ユーフォニアム」を見たということを知った人がその後に私が金管楽器を、すなわち吹奏楽を始めたということを知ったらどうだろう。それはいかにもふさわしいことのように思えるし、唐突さはかなり減じるであろう。この違いは何なのだろうか?

ところで、今日はヴェーバーの支配の正当性に関する理論を思い出した。そもそも私は素朴に支配とは暴力によってなされるものだと思っているのだが、実際の歴史を見ると、大きな暴力を握るものが比例して大きな支配力(例えばマフィアの縄張りのような統治エリア)を得ているわけではなく、反対に大きな支配力を得たものが一定地域において暴力を独占しているようだ。これは不思議である。そこで、ヴェーバーは人民の支配には暴力だけでなく「正当性」が必要であると考え、日常的な支配としては「合法的支配」という類型と「伝統的支配」という類型の2つがあると考えたという。

このヴェーバーの発想は行為についても応用可能かもしれない。なぜならば、我々は現実に可能な行為であっても、それに対してその「正当性」をさまざまな段階において評価するからである。単にその人にその行為が可能であるからといって、その人がその行為をするのが当然だとは思わないからである。例えば、インターネットでは、昔のホームページの掲示板(BBSと呼ばれることもあった)では来訪者(閲覧者)がそこに書き込むことができた。この自分のホームページに対する掲示板書き込みという行為について、ほとんどのホームページ運営者は「来訪者が掲示板に書き込むのは正当で自然なことであり、またそのためにこちらも掲示板を設置している」と考えていただろう。言い換えれば、或る行為が可能であることとそれが正当であることとが一致していたのである。一方、そうでないと考える運営者もいた。その人々にとっては「確かに来訪者は掲示板に書き込むことが可能であるが、この掲示板に書き込むためには一定の資格や事前の承諾を請求する。それが無い場合にはたとえ行為として可能であってもその正当性を承認しない」という前提が当然だったのである。この前提は明示されていれば親切な方で、ときには明示されずに事後的に「非常識だ」「無礼だ」「いきなりなんなんだ」と非難されることもある。

私や私のように突然行為を開始したりパッタリと止めてしまったりする人間についても、それについて外から理由を問われて「できるからやったまでだ。それは個人の自由、つまり恣意(しい、勝手気まま)の範囲だからだ」と述べるだけでは不十分なのだろう。したがって、ヴェーバーの理論を参考にするなら、事前に布告した方針に沿っておこなった行為であると説明する(=合法性や合理性に訴える)とか、祖先や前任者、先輩のやり方に倣(なら)ったのであると説明する(=伝統に訴える)といったやり方がきっと好ましいのである。

(1,428字、2024.03.24)

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