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自分の人生の脇役に憧れる

例えば全人格的な憧れにせよ、部分的な特徴に対する憧れにせよ、誰かに憧れる前提はその人物が自分ではないことである。なぜならば、今の自分自身に憧れるということは無いからだ。

あるいは、憧れを「○○さんに成りたい!」と表現してみても、もちろんこれは比喩的な表現であって、「○○さんのような特徴を獲得したい」とか「○○さんのように周囲から評価されたい」と書き換えることが可能であるし、また実際に具体的アプローチを取るにあたってはそのように書き換えられなければならない。なぜならば、額面通りに自分自身が○○さんに成ることは不可能だからである。

ここまでごく当たり前のことを書いて確認したが、「憧れ」の不思議な部分は人生の主人公がその人生の脇役を尊敬し、自分より高みにおいて拝み羨(うらや)むところにある。これは、ただただ自分自身のスキルアップを図り、機械でテストして定量的評価を得ていくのとは異なることであり、競技スポーツにおいて飽くまで人間同士で争い勝利することが値打ちのあることがされるのに似ている。というのも、例えば強い競技ゲーマーには憧れ得るが、いくらゲームが強くとも計算機に憧れることはできないからだ。反対に、実在しなくともフィクション上の人格に憧れることは可能であるから、計算機にそのような着ぐるみを着せて擬人化してやれば憧れることも可能となる。

人生の主人公である私は、少なくとも自立し成熟した大人としては、誰を自分の人生の脇役として承認するかあるいは拒絶したり無視したりする大きな権限を持つ。なぜならば、それは主人公の幸福に大きく寄与することが多く、人権によって担保されているからである。

しかし、憧れとは脇役にそれ以上の値打ちを認める行為であり、言わば不可能な人格的関係、あるいは質的な関係を望む行為でもある。なぜならば、脇役と主人公の関係は絶対的であり、覆しようが無いはずなのに、ここでは主人公がみづから進んで自分の身分を棄て、脇役に身を委ねるからである。つまり、自分自身が〝脇役〟に成るのだ。なぜならば、脇役が主人公に憧れることこそ憧れにふさわしい、典型的な在り方だからである。そして、かつて脇役であった誰かは憧れられるにふさわしい〝主人公〟に成る。

しかしこのような倒錯が起こったとしても第三者的・客観的には何の変化も無いかもしれない。何の物理的な変化が無くとも、或る人生は主人公の衣を脱ぎ捨て、脇に退くことがあり得る。それは、もし主人公が主人公のままでいることもできたのに自発的にそうしたのであれば、それがその人自身にとって良い人生のあり方だと自己判定したからであろう。そしてもちろん、その当人は憧れる誰かにとっても、それが良いことだと判定したはずである。

確かに、脇役から尊敬されサポートされるのは一般に悪くないことだが、それでも憧れられる側からみたとき、誰かが当人自身のための良さとこちら側の良さとが同一なのだという態度を示していても、それは決定的にズレているようにもみえてしまう。なぜならば、憧れを受ける側からすれば、一体誰が憧れられているのかわからないからである。言い換えれば、自分が憧れを受けている姿を自分自身の外見のように鏡で光学的にみることはできないからである。

だから、憧れる人が進んで脇役に甘んじてもそれは上辺以上の承認を得ることができないし、憧れはそうしたいという衝動以上に本人に満足を与えてくれはしない。憧れというのは成長の途上にはあり得てもいずれは卒業して、他者への尊敬へと変わっていくものではないかと思う。

(1,465字、2023.11.13)


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