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内面を「尊重」するとは?

オンラインでは、対人トラブルになることも少なくない。もちろん誰とでもなるというわけではない。例えば、最初からお互いに無関心な場合もあるし、こちらから予防的に敬遠する場合もあれば、敬遠されている場合もきっとあるだろう。表面的な世間話だけして通り過ぎることもお互いあるだろう。

とはいえ、たまに会話の前提が大きく食い違っていたり、次第にズレていく人に出くわす。それがトラブルとなり、私がグチを書いたり対策を考えたりする原因になる。なぜそのように拡大するかというと、食い違いを即座にわからず(計上できず)、ズレた前提を修正できなかったり、相手の前提を認識して合わせることができず、私自身にも負荷がかかってカンシャク(たいていは逆ギレにつながっている)を抱えたまま事態が進行するからである。例えば、上に「表面的な世間話」と書いたが、イベントの待ち時間の暇つぶしの雑談のつもりで最近のニュースの話をしたら、相手にとっては極めてシリアスな話題だったということもある。いわゆる「地雷」の話題というわけだ。

後から第三者にフィードバックを受けると、そのときの私は、非常に頑固者(がんこもの)・わからず屋になってしまっているそうだ。もちろんそうは成りたくないと思っているが、私が主観的にどう思おうと、あるいは私の意図がどうあれ、私は頑固者なのだろうと前提して自己分析を進める必要がある。なぜならば、(1)事後的には自分自身もトラブルの最中(さなか)には強い情緒と客観的な認識との間との衝突・じれったさを感じていたと自覚するし、(2)また私自身発達障害の公式な診断とそれを支えるだけの生育歴(トラブルの履歴)があるからその点での困難さが原因の全部とは言わないが何割かを後押ししまっているだろうし、かつ、(3)客観的にも実際に私にとっても好ましくないトラブルが生じ、継続しているからでもある。

このようなトラブルを減らすか、もしくは解決するためにはいくつかの方策が考えられる。例えば、誰でもすぐ思いつくのは、会話の機会を半分にすれば、トラブルの数も半分になるだろうということである。しかし、そのように会話や会話を開拓する機会を私は減らしたくない。なぜならば、それにはデメリットも伴うからだ。具体的には、会話してなかよくなるチャンス、私が宣伝したいことを知ってもらうチャンスも同時に減少してしまうからである。かつ、少ないトラブルのために多くのメリットを棄てるのは愚かなことだからである。

とはいえ、仮にメリットを減らさずにトラブルを減らせればそれに越したことはない。なぜならば、その方が関係者も疲労しなくても済むし、関係者の気分や健康にとってもいいことだからである。例えば、私が自分自身の「頑固」な態度やカンシャクという情緒をうまくコントロールできればトラブルはトラブルにならないか、日常のつまらないワンシーンとして通り過ぎてOKとみなせるかもしれない。

では深草の頑固さ(こだわり)とは何なのか? その全貌(ぜんぼう)について私自身分析しきれていればいいのだが、残念ながらいまだにわからないことの方が多い。仮にわかったとしても、どのぐらい修正できるか、実際の個別の発言や態度に実装できるかどうかは未知数である。

ただ、昨晩フィードバックをもらいながら初めて気がついたこととしては、私は自分自身を個人主義者で個人の内面の侵害を非常に嫌う(侵害されることも侵害することも嫌う、あるいは内面にタッチされることもタッチすることも嫌がる)こだわりがあることを自覚していたが、そこから私は「外面モード」と「外面+内面モード」とを必要以上にキッチリ分けようとする傾向がある、ということである。

「外面モード」とは相手の発言や観測可能な行動にもとづいてのみ相手を理解し、必要な場合にはジャッジする態度である。私はトラブルが発展するにつれてこうした外面モードで相手と話すようになる。なぜならば、トラブルになるのは相手と何らかの前提が食い違っているからだろうが、その前提を特定するのは事実上困難であり、客観的な発言や証拠にもとづいて会話しないと、トラブルの原因がどこにあってどこを譲歩したり何を承認すればトラブルが軽くなるのか、不明になるからである。

例えば、私が相手に謝罪するとしよう。こちらが「取り敢えず」謝ったとしても「なぜ、何に対して謝ったのか?」とさらにたずねてくる人がいる。それで、「あなたの気分を害したから」とか「人騒がせだったから」といった応答をすると相手が不満を示すといったパターンはすぐ想像できるだろう。というのも、気分を害したかどうかは事前に相手が明言していなければわからないからでもあるし、悪く解釈すれば「ご機嫌取りで謝っただけか」とか「事なかれにしたいから謝っただけか」とか問い詰められることも考えられるからである(なお、私の意図としてはご機嫌取りであろうと事なかれであろうと、一人の人間が他者を尊重する態度を見せたのであるから少々はそちらも譲ってもらいたいと思うのだが、それをその場で言うと「逆ギレ」だろうから言わない)。

こうしたやり取りの想定から私が判断するのは、誰それの気分とか世間を騒がせたとかそうした主観的なことを根拠にしてはならないということである。飽くまで罵詈雑言であるとか、首尾一貫しない発言であるとか、誰もが認める失礼で過激な振る舞いとかそういった客観的かつ外面的な根拠を求めなければならないということである。言い換えれば、上には私自身の発言意図も書いたが、私自身の意図も相手の意図も論点にすべきではないということである。また、私自身の情緒も相手の情緒も論点とは無関係である。したがって、トラブルにおいては「外面モード」に寄せて推論をおこなうべきだというのが私の思想であり、こだわりとなる。

しかし、外面モードで話を進めると、相手からは「それはそういう意図で言ったのではない」とか「理解してほしい」といった言葉が出てくる。申し訳ないのだが、私自身もそういう発言を控えて厳格に発言している以上、あなたの意図やあなたの情緒やあなたの性格にはタッチする気はなくなっている。言い換えると、私の内面も考慮しなくてよいし、あなたの内面も考慮する気はないということである。実際、このように言うと傲慢に思われるだろうし、傲慢である。なぜならば、相手にとって私の外面モードにおつきあいする義理はないかもしれないからである。

少なくとも外面モードに入ってしまうと、私は防衛的になり、内面を触れられたくなくなるし、相手の内面についても言及したくなくなる。これは頑固な態度であり、そう言われて仕方ないだろう。一方で、私の内面には私の情緒も含まれるので、私は場面によって無自覚にカンシャクを起こしていて冷静ではないかもしれないが、仮に私が冷静でないとしても、あなたは私の情緒を無視して言葉だけでやり取りしてもらってOKであるというタテツケで会話しているという側面もある。

私にとって気づきだったこととしては、どうも多くの人は外面モード(私自身にとっては内面の侵害がないという点ではセーフティモード)と内面を含む語彙を使う危険モードとの厳格な区別がないことである。他の人にとってはなぜ深草がそんなところに大きな「壁」を建設しているのかわからないだろう。一方、私にはなぜ他の人々がそこに壁をつくらずに会話していられるのか、まだわからない。

(3,044字、2024.05.14)

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