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編集権の干犯について

 ふと「編集権の干犯」について考えた。少し歴史に詳しい読者なら気づくだろう。昭和五年(1930)のアレである。「統帥権の干犯問題」といって、戦前ロンドンでの海軍軍縮条約を巡る憲法解釈議論があった。詳しくは史学/法学の専門家に任せたい。

 この厳(いかめ)しい語彙を知ったのはアメリカにいるときで、父が送ってくれた司馬遼太郎のエセーに載っていた。「日本」に餓えていたから浴びるように彼のエセーを読んだ。あの頃、一緒に司馬遼太郎を読んだ米国人の友は雷陳膠漆となった。司馬遼太郎も立花隆も幽世へと居を移して、友人もフランスへと去ってしまった。昭和も平成も遠くになりにけり。

 さて「編集権の干犯」である。どうしてそんなことを考えたのか。単純に今月多く書いたからだ。予定外に単発新規の取引を約1万字、またその他の仕事で約4万字ほど書いた。だから、ふと編集権の干犯について考えた。

 では「編集権」とは何か。たとえば新聞社がAさんを取材する。取材したから記事を書く。書いた記事を見せて下さいとAさんが頼む。すると、Aさんからすれば誇張表現や気に入らない文言がある。またはAさんの主張とは正反対の立場の言説が追加されている。当然Aさんは文句をいう。しかし、新聞社はこう言ってのける。「我々にも編集権がございますので」。

 一般に通用している意味は、こんなところだろう。きっとAさんでなくても、多くの人々がギョっとする。快く取材を受けたのに、自分の理解や意図とは別のかたちで世間に伝えられてしまった。そしてAさんはSNSに愚痴をこぼす。ほどなく同調者が現れて「これだからマスゴミは…!」と炎上ボヤ騒ぎが起きる。昨今、ここまでが定型だ。

 では、とかく槍玉に上げられがちな「編集権」とは何か。分かりやすくいえば、新聞社の記事に関する著作人格権だ。たしかに記事の元ネタになる出来事とその語りは、Aさん個人のものである。しかし、それを文字に起こして記事化するのはAさんではなく、記者/新聞社だ。つまり記事は、一般にAではないBの視点によって書かれるものなのだ。

 Aさんの経験と語りそれ自体は、間違いなくAさんのものである。しかし、それが他者にとってどのように見えるか、ということは、Aさんだけのものではない。Aさんの視点を「近代社会においてはどのように理解できるのか」という視点、それがAではないBである記者/新聞社の視点である。

 いいかえれば、Aさんの出来事とその語り、それを社会の文脈において理解することがBの視点の仕事であり、記者/新聞社である。それゆえBの記事には独自の著作権が発生するし、その著作物を編集する権利を新聞社が持つことは理解できるだろう。

 こんなことはメディア関係の仕事についていれば、常識的なことだが、あまり一般に馴染みあるものとも思えないから少々クドい説明をした。

 では「編集権の干犯」とは何か。簡単にいえば「編集権」という自他の区別が失われている状態だ。自他の区別は、たとえば法律で、または社会通念で定められている。もちろん曖昧な部分は多いが、あまり議論の余地がないことも多い。率直にいえば、メディアを巡る現状こそ「編集権の干犯」という語で表現できる。

 たとえば自他の区別は、土地・家屋については明確だ。他人の土地・家屋に勝手に入ることは一般に許された行為ではない。同様に、他人の著作物を自己都合や気分で改変することはできない。しかし、それをやってしまう愚昧のヤカラが現れるのが昨今である。迷惑系youtuber、モンスタークレーマーしかり、または理性を欠いて行き過ぎた取材を行うマスメディアしかり、である。「編集権の干犯」とは、現代社会そのままの様相だと言える。

 自他の区別を持てないことは、一個の動物としての弱さを高度な社会性によって輔弼するように進化した人類の宿痾なのかもしれない。または「隣人愛」を課した神の瑕疵なのか。

 要するに「編集権の干犯」とは「尊厳が失われた」状態なのだ。誰もが自他の尊厳を見失い、見境なく気分でイチャモンをつけて物言いする発狂錯乱状態、それが「編集権の干犯」だと言えよう。

 容赦なく編集されることを前提とした原稿を提出しながら、そんなことを考える。幸いにしてぼくの関わる編集者らも、お世話になっている取材先らも自他の区別がつく尊厳ある人々である。だから明確な理由に基づいた編集が為されるし、気分で「編集権」を大上段にかまえて振り回すようなこともしない。

 底辺ライター、文字単価で生きる労働者の哀しい性ながら、ぼくも換金できる以上は、そこで自らの著作人格権がウンタラとは述べない。だから「編集権の干犯」とは、少し距離がある執筆が可能となっている。

 そういえば「統帥権の干犯」問題は、大義名分の置き方、建前の理解をめぐる論争だったように思う。

 戦前ロンドンで、政府が海軍軍縮を批准することは、大日本帝国の本義としての天皇の統帥権を干犯する大罪である、という議論だった。昭和5年だから、破滅へのカウントダウンが静かに萌すころだろうか。事実、1935年頃以降には、天皇機関説は退潮していった。

 究極の権威を設定し、その執行権を誰が担保しているのか、という問いとでも言おうか。伝わりにくい例えだが、聖書学における厳密な校訂作業、またはキリスト教宣教における伝達過程とコミュニケーションの問題にも重なってみえる。つまり、神の御心とその体現者たるイエス、その言行の口伝と伝聞の文字化である使徒たちの文書、その写本と翻訳、通訳の問題にも通じている。

 より身近に「統帥権の干犯問題」を現代に置き換えてみれば、宮内庁の拝察発言にも通じるだろうか。つまり立場を問わず、権威と象徴の政治利用である。では「編集権の干犯」は何に当たるだろう。「編集権」を主張する大義名分はどこにあるのだろう。

 明確なことは、個人の主張を鵜呑みにして混乱に加担しないこと、それが「編集権」の大義名分である。しかしマスメディアからも個人からも「大義名分」が失われて久しい。その点、編集権の干犯状態は、まさしく宿痾なのだろう。現代社会であれ聖書をめぐる言説であれ、どちらも猖獗をきわめている。

 過去を顧みれば、干犯問題が浮上して立憲君主制の言い換えたる天皇機関説が退潮して10年ほどで日本は破滅した。破滅から七十余年、破滅の余韻がほぼ消えた後には何が待っているのだろう。

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