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【つの版】度量衡比較・貨幣118

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 寛永16年(1639年)、江戸幕府はポルトガル船の入港を全面的に禁止し、欧州諸国ではオランダだけが日本との貿易・外交を継続します。いわゆる「鎖国」体制の完成です。この頃、チャイナは激動の時代でした。

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鄭氏政権

 日本が「鎖国」を行ってからまもなく、東アジアでは明朝が滅び、満洲族の清朝がチャイナを征服する「明清交替」が起きます。明朝は相次ぐ対外戦争によって財政破綻に陥り、重税と労役に苦しんだ民衆反乱によって内部から滅びました。清朝はモンゴルと融合して万里の長城を越え、李自成(順)ら反乱軍や明朝の残党(南明)を打ち破り、これを征服したのです。

 この頃、福建省には鄭芝龍という豪商がいました。彼は若い頃にマカオに赴いてカトリックの洗礼を受け、東シナ海・南シナ海を股にかけて貿易や海賊行為を行った人物で、日本の平戸島に赴いて武家の娘を娶り福松(鄭成功)という息子を儲けてもいます。のち活動拠点を台湾に遷し、入植したオランダ人とも交易を行って巨万の富を築いていました。

 1644年に北京が、翌年に南京が清朝により陥落すると、明朝の皇族の一人は福建省に逃れ、鄭芝龍らに擁立されて皇帝に即位します(南明隆武帝)。しかしこの政権も翌年清朝の攻撃を受けて崩壊し、鄭芝龍は清朝に降りました。ところが息子の鄭成功は別の皇族(永暦帝)を担いで反清活動を続け、福建を出て広東・広西・貴州・雲南に勢力を広げ、制海権を握ります。彼は明朝の皇族より延平王の称号と朱姓を授かり「国姓爺」と呼ばれました。

鄭成功の活動領域

 一時は南京に迫った南明軍でしたが、清朝に敗れて勢力を失います。鄭成功は皇族の朱以海を担いで抵抗を続け、1662年に台湾南部のゼーランディア城を征服して新たな拠点としますが、同年37歳で逝去しました。鄭芝龍は前年に謀反人の父として北京で処刑され、朱以海も鄭成功に続いて12月に病死し、明朝の復興は事実上潰えてしまいます。日本にも軍事支援が求められましたが、鎖国政策をとっていた江戸幕府はこれを拒否しました。

 鄭成功の死後、弟の鄭襲が跡を継ぎますが、まもなく鄭成功の子の鄭経がクーデターを起こし、鄭襲および伯父の鄭泰を粛清して実権を握ります。混乱に乗じて清朝はオランダと手を組み、鄭氏政権を滅ぼさんと派兵しますが撃退され、鄭経は以後20年近く「東寧王」と称して台湾南部に独立政権を維持します。これは台湾に成立した漢人政権としては初めてのものでした。

清朝海禁

 清朝は南明/鄭氏政権を孤立化させるため1655年に海禁令を発布し、許可証を有する者を除いて大型船の建造や海外貿易を禁止しました。海禁令はその後も繰り返し発布され、違反者には厳罰が定められています。1661年には遷界令によって海浜部住民が強制的に内陸部へ移住させられ、沿岸漁業すら禁止しました。1668年には外国商船の来航も禁じられています。しかし海外からの銀や銅が不足して経済が混乱したため、マカオでのポルトガル、広州でのオランダ・日本との交易は一応許可されました。

 チャイナを征服した清朝は、明朝後期の税制「一条鞭法」をそのまま適用し、を基軸通貨としました。清朝にとってチャイナは(モンゴルにとってそうであったように)征服地の一つであり、満洲・モンゴル・チベット・ウイグル等に対しては別々の法令が適用されていますが、人口・税収の面ではチャイナが最も大きくなります。

 また清朝はポルトガル人やイエズス会の活動を明朝に引き続いて許可し、マカオを通じての海外貿易やキリスト教の布教も許可しています。日本では寺社勢力や幕府がキリスト教を危険視し、貿易を許可しつつも布教を禁止することになりましたが、明朝・清朝はポルトガルから大砲を輸入して運用しており、天文学や暦学においても欧州の知識を用いています。明朝・清朝は世界帝国モンゴルの後継者であり、この頃にはヨーロッパの先進技術を受け入れるだけの度量があったのです。

 ただ1661年から69年までのオボイ摂政時代にはキリスト教迫害が行われました。明朝に引き続き天文台長官の地位にあったイエズス会士アダム・シャール(ドイツ出身)は1665年に収監され、翌年北京で客死しています。オボイ失脚後に親政を開始した康煕帝はフェルビーストらイエズス会士を再び重用し、ロシア帝国との国境交渉等にも彼らが関わっていました。彼らを介して欧州にはチャイナの思想や政治体制が伝えられ、欧州にチャイナ・ブーム(シノワズリ)をもたらしています。

 清朝は明朝から降った漢人の将軍である呉三桂・尚可喜・耿仲明をそれぞれ雲南・広東・福建に封じて藩王(三藩)としていましたが、彼らは海禁令を無視して密貿易を行い、清朝の役人に賄賂を贈り黙認させています。台湾はこれにより年間40万-50万両の利益を得ていました。清朝がこれを咎めて取り潰しを図ると、三藩は1673年(康煕13年)に反清復明を唱えて反乱を起こし(三藩の乱)、台湾の鄭氏政権と手を結びました。

 一時は長江以南が反乱軍に占領されますが、清朝は反撃してこれを打ち破り、1681年(康煕20年)までに三藩を滅ぼします。同年には鄭経も没し、混乱した鄭氏政権は1683年に清朝に降伏して滅亡しました。清朝は台湾に府県を置いて福建省に組み込み統治しましたが、その支配は沿岸の一部にしか及ばず、台湾原住民は化外の蛮族とされています。

 三藩と鄭氏政権の滅亡により、海禁令・遷界令は役目を終えて解除されます。清国商人による海外貿易や外国商船の来航も許可されますが、厦門・広州・寧波・上海には海関が設置されて高額の関税が徴収され、船の建造や出入国は当局の監視下に置かれます。また金・銀・銅・米・兵器などの輸出入も禁止され、しばしば政府から禁止令も出されましたが、賄賂によるお目溢しも多々あり、密貿易は相変わらず続くこととなりました。

日清貿易

 日本は古来金銀や銅を輸出してチャイナの生糸や絹を輸入していましたが、江戸幕府は慶長9年(1604年)以来「糸割符いとわっぷ」制度を敷き、幕府の許可を得た特定の商人に輸入生糸の購入・価格決定権を与えています。この制度では春先に1年間の価格を決定しますが、チャイナ側は対抗措置として春先に少量の絹を持ち込んで価格を吊り上げさせ、後からその価格で大量に輸出するという阿漕なやり方で巨利を得ていました。

 清朝で海禁令が出されたのと同じ明暦元年(1655年)に糸割符制度は廃止され、相対売買仕方による自由貿易となります。これは鄭成功ら南明政権からの圧力によるものともいいますが、支払いのための金銀流出も増大し、日本側の負担が大きくなります。そこで寛文12年(1672年)に長崎奉行により貨物市法が制定され、生糸貿易の抑制が図られます。

 これは長崎に設置された「市法会所」で日本側の目利き商人の入札により価格を決定し、海外商人から一括購入するもので、国内の商人はさらに入札を行って個別に購入します。2回の入札の時の差額(間銀)のうち0.6%が目利き商人に、4割が長崎奉行に、6割が長崎市民に還元され、市街地整備などにあてられました。

 この取引では、オランダ商館との取引では1両が銀68匁(253.64g)とされたのに対し、唐人との取引では銀58匁(216.34g)とされ、金での決済も可能とされています。オランダ人は鄭氏政権に敗れて台湾から撤退しており、対日交易では生糸や絹の原産地を擁する唐人に競り負けつつありました。

 しかし唐人は薄利多売を行ったため金銀の流出はやまず、間銀は汚職のもとにもなります。また三藩や台湾の鄭氏政権が滅亡し、清朝が海禁を解除したため、多数の唐船が長崎に来航するようになりました。そこで貞享2年(1685年)に貨物市法は廃止され、定高貿易法に移行しました。

 これは金銀による貿易決済の年間取引額に一定の上限(定高)を設定したもので、唐船は年間銀6000貫目(金換算で10万両)、オランダ船はその半分銀3000貫目(金5万両)と定められました。また生糸取引に関しては糸割符制度が復活し、その他の商品にはこれまで通り相対取引が原則とされます。唐船に対しては1艘ごとの定高が設定され、元禄元年(1688年)には年間貿易許可船数を70艘までと制限していますが、定高を超えた積荷も金銀決済ではなく銅等との物々交換(代物替)なら許可されています。

 唐人の到来が増えたため、長崎には新たに居留区として唐人屋敷が建設され、当局の監視下に置かれました。ただオランダ人の住む出島よりは監視もゆるく、出入りは比較的自由だったようです。日本とチャイナの交易は、長崎の他にも琉球・薩摩、朝鮮・対馬、樺太・蝦夷・松前を介して行われ、直接の国交はないものの比較的開かれた関係にあったのです。

日蘭貿易

 オランダは対日貿易でチャイナの後塵を廃することになりましたが、貿易自体は長く続きました。日本もオランダを介して西洋の情報や薬品、珍しい物品を求めており、また毎年行われるオランダ商館長(カピタン)の江戸参府によって幕府の権威をアピールすることができたのです。この行事は慶長14年(1609年)から始まり、寛永10年(1633年)からは毎年春に1回行われるようになり、風物詩として道中や江戸市民に親しまれました。

 慶安3年(1650年)にオランダから日本へ輸出された品物を見ると、生糸や絹が圧倒的に多く、チャイナ産の生糸が9569斤(単価は10.2グルデン)、絹織物が3764反(単価は12グルデン)となっています。トンキン(ベトナム)産の生糸は5.9万斤余もありますが単価は4.3グルデンで、トンキン産絹織物は1.54反余で単価4.6グルデン、ベンガル産生糸は3.48万斤余で単価4グルデンです。単価ではチャイナ産の1/3ほどしかありません。

 当時の為替レートは17グルデン≒金1両で、欧州では1グルデンが現代日本円の10万円相当とすると、17グルデン≒170万円です。これは明末清初の農業労働者の年収(銀17両)に相当します。台湾産の鹿革は単価0.41グルデン(4.1万円)、砂糖は1斤あたり0.16グルデン(1.6万円)で、この年の合計売上は66.2万グルデン余(金3.9万両≒662億円)となります。

 寛文元年(1661年)に日本からオランダへ輸出された品目を見ると、丁銀(銀塊)が4000貫目(6.7万両相当)、竿銅(銅塊)が71万斤(11万貫)、米500俵、小麦4050俵、樟脳9000斤余、磁器3.9万個、小箪笥12棹となっています。合計141.38万グルデン余(8.2万両≒1394億円)です。これが5万両に制限されたわけで大きな痛手でしたが、交易と江戸参府は続けられました。

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【続く】

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