見出し画像

【つの版】度量衡比較・貨幣101

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 英国が北米東部にバージニア植民地を築いた頃、その北にはオランダが「ニューネーデルラント」を形成します。さらに北には英国の新たな植民地「ニューイングランド」が形成されつつありました。

◆Hudson◆

◆River◆


北西航路

 スペインは1598年にフランスと、1604年に英国と和平条約を締結し、オランダ(ネーデルラント)への支援をやめさせます。やむなくオランダは1606年からスペインとの和平交渉を開始し、1609年4月から12年間の休戦協定を結びます。この間は相互に敵対行為を禁止されたため、オランダは海外のスペイン・ポルトガル領土や船をこれ以上襲撃できなくなりました。しかし逆に言えば、敵船に襲撃されることなく探査や入植を行えるわけです。

 1609年、オランダ東インド会社は英国の航海士ヘンリー・ハドソンを雇い入れ、北米大陸の北端を抜けてアジアに到達する「北西航路」の探索に差し向けます。彼は1607-08年に英国モスクワ会社に雇われて「北東航路」の探索を行いましたが、分厚い氷に阻まれて先へ進めませんでした。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Arctic.svg

 北東航路も北西航路も、喜望峰やインド洋、太平洋を経由するより東アジアへは遥かに近いのですが、苛酷な寒さと海氷に覆われた北極海を抜けねばならず、小氷期を迎えていたこの時代に通行することはほぼ不可能でした。

 北西航路の探索は、1576-78年に英国のマーティン・フロビッシャーが行っています。彼はモスクワ会社やエリザベス女王の出資を受け、グリーンランドの西に浮かぶバフィン島の南端の湾(フロビッシャー湾)に到達し、これを海峡だと報告していますが、そこから先へは進めませんでした。ついでジョン・デイヴィスが1583-1587年に探索を行いましたが、バフィン島の南の海峡を荒波のために通過できず断念しています。

 ハドソンは北西航路の発見を諦め、まずは北米中央部から太平洋へ抜ける道を探ります。彼はジェームズ川が流れ込むチェサピーク湾や、その北のデラウェア湾、ニューヨーク湾などを探索しますが、いずれも川の河口に過ぎず、太平洋まで繋がっている様子はありませんでした。ニューヨーク湾からハドソン川を遡った彼は遡上限界点(現オールバニー)まで到達し、先住民のウォピンジャー族モヒカン族と接触して毛皮交易を行っています。

 ハドソン川の名はヘンリー・ハドソンにちなみますが、先住民はマヒカン二トゥク([潮の干満により]2つの方向に流れる川)と呼び、モヒカン族の名はそれにちなみます。スペイン人はサン・アントニオ川、オランダ人はモンテーニュ川やノールト(北の)川などと呼び、ハドソンはオランダ総督マウリッツにちなんで「マウリチウス川」と名付けています。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Henry_Hudson_Map_26.png

 1610年、ハドソンはバージニア会社と英国東インド会社の出資により、改めて北西航路の探索に出発します。彼はアイスランド、グリーンランドを経て、7月末にラブラドール半島とバフィン島の間の海峡(ハドソン海峡)に到達し、これを通過して広大な海(ハドソン湾)に達します。ハドソンは興奮してこの海を探索し、太平洋への抜け道を探して南へ向かいますが、南側には陸地が続くばかりでした(北側には細い海峡があります)。ハドソンたちは湾の南に上陸して越冬しますが食糧が足りなくなり、翌年探索を再開しようとしますが乗組員に反乱され、息子たちとともに置き去りにされてしまいました。彼らのその後は不明で、現在に至るまで発見されていません。

 北西航路の探索は、水先案内人ウィリアム・バフィンに受け継がれます。彼はバフィン島の東側を北上してランカスター海峡などを発見しますが、結局は採算にあわないとして探索は打ち切られました。最終的に北西航路が確認され踏破されるのは、実に19世紀半ばまで待つことになります。

新阿蘭陀

 さて、ハドソンによる探索と報告を根拠として、オランダはハドソン川(マウリチウス川)流域とデラウェア湾への進出を開始します。1610-14年には次々とオランダの冒険商人が訪れ、海岸線と地図が作成されました。1614年、これらの地域の地図がオランダ議会に提出され、「ニューネーデルラント」と名付けられます。この地域で活動していた複数の貿易会社は、新たに設立された「ニューネーデルラント会社」に統合され、北緯40度から45度の間での排他的な交易を許可されました。

 1614年、オランダの貿易商人ヘンドリック・クリスティエンセンはマウリチウス川を遡り、現ニューヨーク州オールバニーのキャッスル島にナッサウ砦を建設しました。これはオランダ総督の家門であるオラニエ=ナッサウ家にちなむ名で、洪水と先住民の襲撃により短期間で放棄されたものの、アメリカ大陸における最初のオランダ人入植地となりました。

 1621年4月にスペインとの休戦期間が終了すると、同年6月に「勅許西インド会社(Geoctrooieerde Westindische Compagnie/GWC)」、すなわち「オランダ西インド会社」が設立され、喜望峰までのアフリカ大陸沿岸部と大西洋・太平洋を含む西半球における貿易の独占が認められました。スペイン・ポルトガルの植民地となったアメリカ大陸とその周辺航路の襲撃・掌握、私掠船による掠奪が目的です。大西洋を繋ぐ奴隷貿易も利益が見込めました。

 会社組織は東インド会社(VOC)を真似て作られ、株式を公開して資金を募ったのも同じです。個人投資家たちは株主の権限が制限されていると難色を示しますが、VOCや政府からの資金投入、外国人投資家の呼び込みなどで資本金が集まり、1623年には280万フロリンに達しました。

 フロリンはフィレンツェのフィオリーナに由来する3gほどの金貨で、オランダではギルダー/グルデンともいい、ヴェネツィアのドゥカート金貨、ドイツのターレル銀貨、スペインの8レアル銀貨、英国のクラウン金貨に相当します。また英国の5シリング=1/4ポンドに相当しますから、当時の1ポンドを現代日本円にして10万円とすれば2.5万円です。従って280万フロリンは70万ポンド≒700億円に相当します。VOCの資本金は650万フロリン=162.5万ポンド≒1625億円に達しましたから半分以下ですが、充分な資金です。ただしこのうち100万フロリンはオランダ議会とVOCが出しました。

 GWCはこの資本金を元手に15隻の商船を調達し、それぞれに40-50人の兵士を載せ、大西洋各地に送り出します。当面の利益が見込めたスペイン・ポルトガル船や植民地への襲撃、アフリカとの奴隷貿易に比べ、毛皮ぐらいしか商品のない北米の「ニューネーデルラント」への進出はあまり魅力的ではありませんでしたが、ヨーロッパでの戦乱や宗教的迫害を逃れて新天地へ入植し、理想郷を建設しようと志す人々もいたようです。

新安特垣

 1624年5月、GWCはニューネーデルラントのノーテン島(現ニューヨーク州マンハッタン区のガバナーズ島)、およびその北のオラニエ砦(現オールバニー)に30家族の移民を運びました。翌年には3隻の船で45名の移民と多数の家畜がノーテン島に運ばれ、恒久的な入植地が形成されます。同年にはノーテン島の北のマンハッタン島南端に砦が建設され、「ニューアムステルダム」と名付けられました。のちのニューヨークです。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Nieuw_Nederland.png

 ここはハドソン川の河口部にある天然の良港で、南は海に向かい、北西に船で進めばロングアイランド湾に出ることもできます。南のデラウェア川流域や北のコネチカット川にも少しずつ砦が建設され、先住民との交易拠点とされました。ニューネーデルラントの形成はこうして始まったのです。

 1626年頃、ニューネーデルラントの第三代総督ペーテル・ミニュイは「60ギルダー相当の交易品」と引き換えに、先住民からマンハッタン島の南部1/4を購入したとされます。上述のように1ギルダー/フロリンを2.5万円相当とすれば、60ギルダーは150万円です。1844年、アメリカ合衆国の歴史学者ジョン・ローミン・ブロードヘッドは、これを「24ドル相当」と換算しました。当時は1ドルが2.5ギルダーに相当したためですが、1840年頃の労働者1人あたりの生産高が5000ドルだそうですから、これを現代日本の300万円とすれば1ドル600円で、24ドルは1.44万円にしかなりません。17世紀にドルといえばターレル=8レアル銀貨ですからギルダーと同じ価値になります。まあ「200年以上前に安値で買った土地が、今はこんな大都会だよ」と言いたかったのでしょうが、先住民に60ギルダー相当の交易品がどう受け取られたかは定かでありませんし、そもそも「土地を売却した」という認識が彼らにあったかどうかもわかりません。

◆New◆

◆York◆

 この頃、英国はニューネーデルラントの北方を「ニューイングランド」と名付け、新たな植民地を建設しました。1620年に成立したのがプリマス植民地で、有名な「ピルグリム・ファーザーズ(巡礼の父祖たち)」が建設したといいます。彼らは最初の植民者でもなく、独立国家を築いたわけでもないのですが、なぜか後のアメリカ合衆国においては「建国の父」と讃えられています。次回は彼らの実態と、神話化された理由を探ってみましょう。

【続く】

つのにサポートすると、あなたには非常な幸福が舞い込みます。数種類のリアクションコメントも表示されます。