見出し画像

【つの版】日本刀備忘録04:俘囚野剣

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 倭国/日本に海外から伝来し用いられていた刀は、反りのない直刀でした。7世紀後半になると東国で蕨手刀が出現し、柄を刃先に対し逆に曲げることで威力を増す工夫が施され始めます。そして平安時代初期における蝦夷と日本の戦争は、反りを持つ日本刀の原型を生み出すことになります。

◆刀◆

◆剣◆


征夷宝剣

 蝦夷は古墳時代から倭国/日本と盛んに交易を行い、米・布・土器・鉄器・馬等を輸入し、昆布・砂金・毛皮・鷲羽(矢羽根用)等を輸出しました。馬は蝦夷の住む地に増え広がり、逆に倭国/日本への輸出品ともなります。ただ鉄器は倭国/日本のほうが海外から渡来した製鉄技術により優れていたため、江戸時代まで盛んに蝦夷へ輸出されました。小刀(刀子)や斧・山刀は生活必需品ですし、刀剣は威信財にもなりますから、7世紀後半に東国で流行していた蕨手刀はたちまち蝦夷にも広がります。

https://adeac.jp/hirosaki-lib/text-list/d110000/ht030400

 現在までに280ほどの蕨手刀が確認されていますが、その8割は北海道と東北地方から見つかっています。特に蝦夷と倭国/日本が接触する宮城県・岩手県とその周辺に集中しており、交易を通じて遠く北海道にまで届きました。正倉院にも蕨手刀が納められ、西国にも稀に伝わっていますから、東国や蝦夷が蕨手刀を独占していたわけではないですが、珍しくはあったでしょう。

 8世紀初頭、倭国は国号を日本と改め、唐に倣って律令制を整備し、蝦夷を国家の下におさめようとします。蝦夷はこれに反発してしばしば反乱し、日本は各地に城柵を築いて蝦夷の襲撃を防ぐとともに交易拠点としました。城柵には服属した蝦夷(夷俘・俘囚)や東国等から送り込まれた兵士・入植者(屯田兵)が駐留し、両者の文化が混ざり合っていきます。蝦夷は日本の技術や戦術を学び、組織的に抵抗活動を行ったため、奈良時代後半から激しい戦闘が続きました。坂上田村麻呂が活躍したのはこの時代です。

 桓武天皇は都を大和国(平城京)から山城国(長岡京・平安京)へ遷し、蝦夷を盛んに征討させましたが、延暦24年(805年)にこれを停止し、翌年崩御しました。坂上田村麻呂は右近衛大将・侍従に昇進、大同5年(810年)に勃発した「薬子の変」を鎮圧し、翌年に逝去しています。時の嵯峨天皇は彼の死を悼み佩刀を御府に納めましたが、これが前述の坂家宝剣です。

 兵庫県加東市の清水山には、坂上田村麻呂の佩刀「騒速そはや」とその差添え(副剣)とされる三振り(15世紀以前は二振り)の大刀が伝わっています。どれも全長2尺(60cm)前後、刃長1尺7寸(50cm)前後で浅い反りがあり、一振りは切刃造ですが、二振りは刀身の半ばから先が刺突向きの両刃になっている「きっさき両刃造もろはづくり」という独特の形状をしています。この形状は正倉院宝物の直刀にもあるため、実際に平安初期のもので、直刀から弯刀に変化する過渡期のものと考えられています。

俘囚野剣

 この頃、蝦夷では蕨手刀に変化が起きています。最初に起きた変化は、蕨手刀の柄に細長い「透かし穴」が空けられたことでした。この透かしに指先をかけることにより、柄を握る力を強め、馬上からの疾駆斬撃時に生じる強い衝撃を緩和させることができるのです。透かし穴のある柄の形が「毛抜き」に似ていることから、これを「毛抜型蕨手刀」と呼びます。当時はまだ蝦夷の地である岩手県(陸奥国中部)と北海道に出土が限られることから、日本から伝来したものではなさそうです。

 続いて、9世紀後半には刀身に反りが現れ、柄頭から蕨型の装飾が消えて方形となります。柄の毛抜形の透かし穴は残されたため、蕨手の名が抜けて「毛抜形刀」となりました。出土例は秋田県(出羽国)と北海道に一例ずつしかなく、刀身の長さは50cm(1尺7寸)ほどです。方形の柄頭は日本側の直刀と同じ特徴ですから、その影響を受けたのでしょう。このため柄頭で敵を殴りつけることも可能になり、戦術の幅が広がりました(8世紀には蕨手が鼓のような形となった立鼓柄刀も出現していますが)。

 この毛抜形刀が出現した頃、秋田県/出羽国では飢饉と悪政が重なり、大規模な蝦夷の反乱(元慶の乱)が勃発しています。この反乱の鎮圧には日本も手こずり、「雄物川(秋田河)以北を朝廷の直接支配が及ばない地(己地)とする」という寛大な政策を取ることでようやく鎮めたほどでした。この乱で毛抜形刀が蝦夷に用いられ、日本側に伝わったと推測されています。

毛抜形太刀

 こうした変遷を経て、10世紀初め頃に出現したのが「毛抜形太刀」です。柄と刀身は一体化し(共鉄作り)、刀身には柄から続く自然な反りがあり、毛抜形刀より刀身が長く(2尺2寸-3寸、66-69cm)、柄には透かし穴があります。これぞ最初期の「太刀たち」であり、日本刀の原型です。

 天皇を護衛する六衛府(左右近衛府・左右衛門府・左右兵衛府)では、この毛抜形太刀を正式な武官の兵仗(武器)として採用し、「衛府の太刀」と呼ばれました。儀仗用には鮫皮柄・漆塗りで金銀の装飾を施した「唐大刀からだち/飾太刀かざりだち」が用いられ、公卿はその略式の「細太刀」を用いましたが、衛府の太刀は平鞘で革緒を用いた実用的なもので、公卿や天皇・上皇からは「野太刀のだち」「俘囚野剣(蝦夷の捕虜が用いる野蛮な剣)」とも呼ばれています。遡れば直刀が起源とはいえ、朝廷からも「蝦夷の刀」とみなされていたのです。

 追記:のですが、Wikipediaにそう記される「白河上皇高野御幸記」の原本(西南院蔵本)には「俘囚野剣」の語がありません(「蒔絵野剣」はありますが)。
 またこのサイトには「日本刀大百科事典より引用」として、「白川(河)法皇が天治元年(1124)10月、高野山御幸のさい、左衛門督通季が俘囚の野剣を帯びてきたのを、権中納言実行が『誠ニ是レ法度ノ外ト謂ウ可シ』と厳しく非難している」云々とありますが、西南院蔵本「白河上皇高野御幸記」には「武者たちの衣色は美麗を競い、法度の外というべし」とあるだけで、通季や実行の名は出てきません。どういうことなのでしょうか。他の本にはあるのかも知れませんし、とりあえずタイトルはこのままにしておきます。

 岩手県一関市に儛草まいくさ神社があり、その周囲には平安時代中期に遡る製鉄・鍛冶の痕跡があります。この地で作られた初期の太刀を「舞草もくさ」と呼びます。その実態は明らかでありませんが、奥羽に君臨した奥州安倍氏・出羽清原氏・奥州藤原氏に庇護されて作刀を行ったとも考えられ、鎌倉時代から南北朝時代にかけても作刀が行われています。彼らが毛抜形太刀の、ひいては日本刀の誕生に関わっているともされますが定かではありません。平安時代のこの地は日本と蝦夷の接する最前線ですから、何らかの影響はあったことでしょう。

 現存する毛抜形太刀のうち、福岡県の太宰府天満宮には菅原道真の佩刀とされるものが伝わっています。道真は西暦903年に没していますから、本物なら最初期の毛抜形太刀です。また奈良県の春日大社には金地螺鈿毛抜形太刀が納められ、滋賀県長浜市竹生島の宝厳寺と三重県の伊勢神宮には、平将門を討伐した藤原秀郷の佩刀とされる毛抜形太刀が伝わっています。伊勢神宮にはこれとは別に、秀郷が大百足を退治した時の太刀という「蜈蚣切むかできり」なるものが納められていますが、鑑定によると14世紀のものだそうです。

小烏丸

 同じく平将門を討伐した平貞盛の佩刀として、小烏丸こがらすまるなる太刀が伝わっています。これは貞盛が天皇より授かったとされ、彼の子孫である伊勢平氏の家宝となりましたが、毛抜形太刀ではなく鋒両刃造です。伊勢平氏の宝剣には他に唐皮抜丸なるものもあり、抜丸は別名を「木枯こがらし」と言ったとも伝えられます。天叢雲剣が皇位継承の印であるように、公家や武家にもこうした累代の宝剣が由緒とともに伝えられ、これを継承することが家門継承の証のひとつとなりました。

◆将◆

◆門◆

【続く】

つのにサポートすると、あなたには非常な幸福が舞い込みます。数種類のリアクションコメントも表示されます。