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【つの版】度量衡比較・貨幣113

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 フランスの宰相マザランが1661年に没した後、国王ルイ14世はコルベールを財務総監に任命します。彼は重商主義を掲げて20年に渡り財政改革を推し進め、フランスを強国へと導くことになります。

◆仏◆

◆蘭◆


重商主義

 コルベールは1619年にランスの裕福な商人の家に生まれ、叔父が戦争国務長官ミシェル・ル・テリエの姉妹と結婚したことから、20歳頃には軍の査察官を経てル・テリエの個人秘書となっています。1647年には叔父の財産を相続し、翌年マリー・シャロンと結婚して4万クラウン(1クラウン=5リーヴル≒現代日本の2.5万円として10億円)もの持参金を受け取り、翌年には国務議会の議員(大臣)に加わりました。1652年には宰相マザランから事務管理を任され、1661年にマザランが没すると国王の財務担当となります。そして前述のように大蔵卿フーケを逮捕させて失脚させ、1664年に45歳にして財務総監の地位につき、マザランに代わって事実上の宰相となりました。

 当時のフランスの財政は、長年の戦乱や内乱、マザランやフーケの横領で破綻状態にありました。フランス王は歴史的経緯により塩税(ガベル)や土地税(タイユ)を国内に毎年課すことができ、英国のように議会に諮らずとも多額のカネをかき集めることができましたが、徴税は官僚制度の不備により徴税請負人に委任されています。コルベールは税収を確保するため、徴税請負人の管轄範囲を統合し、広範囲から前払いで多額の税金を国庫に入れることができるようにします。また国債の元利のカットや金利の引き下げ、債権回収なども行われ、債務者には罰金を課しました。

 貿易面では保護関税政策をとり、国内の輸出産業を保護育成し、輸入を減らして輸出を増やすことで経済を振興しました。さらにマダガスカル会社(1637年設立)、東方会社(1642年設立)、チャイナ会社(1660年設立)を1664年に統合して勅許・国営の「フランス東インド会社」とし、英国やオランダに対抗して海外貿易と植民地経営を推進しました。同社は17世紀初頭に設立されていましたが、それが再建されたものです。

 会社の資本金は1500万リーヴル(750億円)とされ、1/5の300万は国王が出資し、宮廷全体から200万、高等法院と金融業者が各200万、リヨン市が100万、商人組合やパリ市が各65万などと割り当てられます。株主総会への出席可能者は6000リーヴル(3000万円)以上の株主で、会社はインドやチャイナ、東南アジア、マダガスカルなどにおける貿易特権と占領地の領主権を持ち、外交・交戦の権利なども与えられました。初代長官のカロンはオランダ東インド会社に長年勤めていた人物ですから、同社を真似たものです。マダガスカルは不毛の地であったためもっぱらインド貿易に力が注がれ、赤字を出しつつもインドにフランスの拠点を築くことには成功しました。

 同年には大西洋沿岸を管轄するフランス西インド会社も設立され、アメリカとアフリカにおける貿易特権と植民地の領主権等を与えられています。資本金は東インド会社より少ない600万リーヴルで、西アフリカからカリブ海などへ奴隷を輸出したり、タバコ農園の経営や毛皮・木材の取引などで利益をあげています。こうした政策によりフランスの財政は好転し始めますが、国王は1661年から狩猟用の別荘があったヴェルサイユに宮殿を建設し始め、完成までに20年の歳月と多額のカネを注ぎ込んでいます。

英蘭再戦

 コルベールが財務総監に就任した1664年、英国はオランダ(ネーデルラント)の植民地である北アメリカ東部のニューネーデルラントに4隻の艦隊を派遣し、降伏勧告を行っています。北方に隣接するニューイングランドには反国王派の清教徒がいたため、王政復古後の英国は彼らを威圧して服属させるとともに、ニューネーデルラント側に住み着いていた英国人をも植民地ごと支配下に置こうとしたのです。

 当時のニューネーデルラント総督ストイフェサントは、ニューアムステルダムにおいて英国からの降伏勧告を受け取ります。それには「英国王の権威に服する者の生命・財産・自由を約束する」とあり、また交渉によって信教の自由も保証されると確認されました。この頃ニューネーデルラントは本国からの支援が届かず、守備兵も武器弾薬も欠乏していたので、やむなく戦わずして降伏します。英国王チャールズ2世はこの地を弟のヨーク公ジェームズに与え、ニューアムステルダムは「ニューヨーク」と改名されました。

 接収自体は戦闘なしに済んだものの、植民地を奪われたオランダ本国では対英国開戦論が噴き上がり、1665年に第二次英蘭戦争が勃発します。英国は同年6月の自国沖での海戦で大勝利をおさめ、敵軍の提督を戦死させましたが、翌1666年にはフランスがオランダと同盟して英国に宣戦布告します。英国はフランス艦隊に対して戦力を分散せざるを得ず、同年6月には大損害を被ります。オランダ側も多数の将兵を失い、8月には本土に上陸されて商船や倉庫を焼き払われ、100万ポンド(1000億円)もの被害を受けました。

 英国でも1665年にペストが流行したり、翌年にロンドン大火が起きたりと大変で、軍資金の不足もあってオランダとの講和交渉が開始されます。これが難航する中、オランダ側は無防備な英国本土に大艦隊を派遣し、テムズ川の南のメドウェイ川の河口に侵攻します。油断していた英国艦隊は20万ポンドに及ぶ大打撃を受け、ロンドンに通じるテムズ川河口も封鎖されます。恐怖した英国王は講和交渉で譲歩し、1667年7月末に和約が結ばれました。

 オランダ側は優勢でしたが、同年5月にフランス王が王妃のスペイン領南ネーデルラントの継承権を主張してスペインと開戦しており(ネーデルラント継承戦争)、脅威を感じたオランダは英国に若干譲歩した条件で和約しています。ニューアムステルダムを含む北米植民地(ニューネーデルラント)は英国に割譲され、南アメリカ北東沿岸のギアナ地方(現スリナム)はオランダ領となり、東南アジアのバンダ諸島のラン島などもオランダ領とされました。またオランダは英国に航海条例を一部緩和させ、ライン川を経由するオランダ船には適用されないことを承認させています。

仏蘭戦争

 これにより英国とフランスも講和しますが、オランダはフランスを牽制するため英国とスウェーデンを味方につけ、1668年1月に三国同盟を締結します。やむなくフランスは諸国と和約し南ネーデルラントから撤退しますが、フランスの覇権主義はおさまらず、オランダを孤立させるために陰謀を巡らせます。1670年には英国王と密約を結び、1672年にはスウェーデンやドイツ諸侯とも同盟や中立条約を締結しました。これにはコルベールがせっせと稼いだカネがものをいい、懐事情の厳しい諸侯王はフランスに従属します。

 1672年3月末、英国王チャールズ2世は議会の反対を押し切ってオランダに宣戦布告します(第三次英蘭戦争)。4月にはフランスがオランダに宣戦布告し、仏蘭戦争が始まりました。オランダは国家存亡の危機に陥ります。

 英国による海からの侵攻はオランダ艦隊の奇襲により食い止められたものの、フランス軍による陸からの侵攻は防ぎきれず、各地の都市や州が次々と征服されます。オランダ側は堤防を破壊して洪水を起こしホラント州を守りますが、親仏政策をとり屈辱的な講和交渉を開始した指導者デ・ウィットへの不満が高まり、民衆による暴動が起きます。デ・ウィットは辞任したのち民衆に虐殺され、ウィレム2世の子・ウィレム3世が22歳でオランダ総督に擁立されます。彼はスペインと神聖ローマ帝国、すなわちハプスブルク家と同盟を結び、ルイ14世率いるフランスに立ち向かうことになります。

◆和◆

◆蘭◆

【続く】

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