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【つの版】度量衡比較・貨幣70

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 1549年8月、イエズス会士ザビエルは薩摩に上陸し、領主・島津貴久に迎えられました。翌年には薩摩を去り、平戸を経て周防に赴き、領主・大内義隆に謁見したのち、京都へ向けて出発します。この頃の畿内はどんな状況だったのでしょうか。

オルテリウスによる日本図

◆Astic◆

◆assia◆

畿内動乱

 天文19年(1550年)12月17日、ザビエル一行は周防山口から東へ向かい、岩国から船に乗って瀬戸内海を進み、に到達します。この地の豪商に日比屋了慶(了珪)なる人がおり、ザビエルを歓迎しました。当時の堺は博多と並ぶ海外貿易の拠点として繁栄を極め、36人の「会合衆」という豪商たちの評議会によって統治されていた共和政の自治都市でした。

 この頃、畿内は大いに乱れていました。大内義興が1518年に京都を離れて周防へ帰ったのち、幕府管領・細川高国は阿波国に逃れていた宿敵・細川澄元の反撃を受けます。澄元は阿波の宿老・三好之長とともに摂津へ侵攻し、1520年には京都に侵攻して高国らを近江国まで駆逐しますが、高国は反撃に転じて澄元らを敗走させ、京都を奪還します。高国は澄元と内通した将軍・足利義稙を退位させ、足利義澄の子・亀王丸(義晴)を将軍に擁立します。

 11歳の将軍に統治能力はなく、実権は高国が掌握します。これに対して阿波の細川晴元(澄元の子)・三好元長(之長の孫)は1527年に淡路・堺を経て京都へ再び侵攻、高国をまたも近江へ駆逐します。そして義晴の異母弟・義賢を堺で将軍に擁立、義維よしつなと改名させました。彼は京都へ入ることなく堺に幕府を開き、「堺公方さかいくぼう」と呼ばれるようになります。

 1531年、高国は晴元に追い詰められて自害しますが、義晴は近江国朽木に味方の諸侯を集め、幕府を開いて堺公方に対抗します。足利幕府は京都を挟んで南北に分裂したのです。さらに晴元は義維・元長と対立し、これを討つために堺の北方の本願寺門徒(一向一揆)の力を借りました。元長は一向宗と対立する法華宗の信者だったためです。1532年、一向一揆の大軍によって堺が包囲され、元長は自害、義維は捕縛されて阿波に送られました。晴元は義晴と和解して彼を将軍とし、京都に迎え入れます。

 これに対し、高国の弟・晴国と高国の養子・氏綱が相次いで挙兵し、義晴・晴元体制を揺るがします。彼らを擁立したのは高国派の細川国慶でしたが、晴元は摂津に拠点を置く三好長慶(元長の子)らを味方につけてこれに対抗し、1536年に晴国を、1547年に国慶を打倒しました。ところが長慶は晴元が厚遇する同族の三好政長と対立し、晴元から氏綱に寝返ります。1549年、長慶は政長を摂津江口の戦いで討ち取り、晴元を京都から近江へ駆逐すると、氏綱を奉じて上洛しました。これを歴史上「三好政権」と呼びます。

 協力者の氏綱がいますから実際は細川政権が消滅したわけではありませんが、将軍を退いていた足利義晴、その子・義輝は晴元とともに近江へ逃れ、またも京都に将軍はいなくなります。そしてザビエルが堺に来た頃、長慶は根来や堺の鉄炮鍛冶を大いに活用し、晴元らも近江国友村に鉄炮鍛冶の拠点を作り、両者は畿内の南北に分かれて抗争していたのです。

京都荒廃

 このような状況ですから、京都(ミヤコ)は長年の戦乱で荒れ果てていました。ザビエル一行は堺で日比屋了慶の世話を受けつつ情報を集め、同じ堺の商人で薬種問屋であった小西隆佐(小西行長の父)を紹介されます。彼はこの頃京都に滞在しており、ザビエルたちを歓待しました。

 すでに鉄炮が南蛮人からもたらされて10年近く経っているのですから、目端の利く商人なら彼らと商売したいと考えるのは当然です。博多を抑える大内氏も尼子氏に敗れてガタが来ていますし、堺を南蛮貿易の拠点とすればザビエルたちの布教活動も軌道に乗ってWIN-WIN関係です。

 ザビエルは日本全国での布教の許可を「日本国王」から得るため、ポルトガルのインド総督およびゴアの司教の親書を持っていましたが、京都は上述のように戦乱の巷と化しており、将軍の義輝も大御所の義晴も不在でした。当時の天皇は後奈良天皇ですが実権はなく、宗教的にも一向宗や法華宗、天台宗の僧侶らが武装して相争う状況でした。ザビエルたちは失意のうちに京都を立ち去り、天文20年(1551年)3月に平戸へ戻りました。

大寧寺変

 トーレスと再会したザビエルらは事情を伝え、再び大内義隆と会見して彼の領国での布教許可を得ることにします。ザビエルは貴人との会見には外見と献上品が物を言うことを痛感し、一行を美麗な服装で飾り立て、望遠鏡・置き時計・眼鏡・絵画など西洋の珍しい文物を取り揃えます。平戸にはすでにポルトガル商人が出入りしていたのですから、彼らから布教のために購入したり譲り受けたりしたのでしょう。

 同年4月下旬、ザビエル一行は平戸から再び山口を訪れ、大内義隆に謁見して、「日本国王」に渡すはずであった親書とともに贈り物を捧げます。義隆は大いに喜んで布教を許可し、廃寺となっていた大道寺という寺を与えました。ここに日本初のキリスト教の教会堂(南蛮寺)が誕生したのです。

 ザビエルはこの大道寺で一日に二度説教を行い、2ヵ月のうちに500人が洗礼を受けました。彼らは天竺(インド)から来た南蛮人の僧侶で、十字架やマリア像を拝み、書物をめくり数珠めいたロザリオを繰って聞き慣れぬ経文を唱えていますから、当初は仏教の一派だと思われたようです。通訳のヤジロウも仏教的な知識でキリスト教を解釈し、キリスト教の父なる神(Deus)を「大日」と説いていたともいいます。ともあれ布教は成功しました。

 またこの時、盲目の琵琶法師がザビエルの説教を聞いて洗礼を受け、ロレンソという洗礼名を授かっています。本名は不明ですが、ロレンソを音写してか了斎/了西とも呼ばれます。

 8月頃、ザビエルは周防から海を挟んで南にある豊後(大分県)にポルトガル船が来着したとの話を聞きつけ、トーレスに山口での教会の指導をいったん任せて豊後へ向かうことにしました。豊後は鎌倉時代から守護大名の大友氏が統治しており、北の大内氏とは長年対立しています。当時の当主は義鎮といい、1550年2月に内紛の末に当主を継いだばかりでした。

 ザビエルが豊後に向かってまもなく、1551年8月末-9月初に周防でクーデターが勃発し、大内義隆は家臣・陶隆房(晴賢)らに攻められて自害に追い込まれます。陶氏らは反乱前から大友義鎮と手を組み、義鎮の弟で大内氏の母(義興の娘)を持つ晴英を新たな大内氏の当主に据えることで合意していました。大友氏はこれによって大内氏との長年の対立を解消し、北部九州に大きく勢力を広げることとなります。そして義鎮はザビエルに領国での布教許可を与え、南蛮貿易を掌握するのです。この政変にザビエルやポルトガル人がどこまで関わっていたかは不明ですが、タイミング的に何らかの関与はあったかも知れません。

 1551年11月、ザビエルはトーレスとフェルナンデスを日本に残していったんゴアへ戻ることとし、日本人の信徒4人とともに出帆しました。一行は種子島、広東のポルトガル人居留地である上川島を経て、1552年2月にゴアに到着します。ザビエルはゴアの司教に日本の状況を報告すると、同年4月にはチャイナへの伝道を目的としてゴアを立ち去り、9月に上川島に戻りました。しかしこの地で病に罹り、12月3日に46歳で世を去ります。

 彼が日本に伝えたキリスト教は、報告を受けて続々とやって来た宣教師によってさらに広まります。日本と南蛮(ポルトガル)との貿易は加熱し、大量の銀が輸出され、世界経済を動かしていきました。同じ頃、メキシコやペルーでも銀山開発が進められ、大量の銀が流れ出し始めます。

◆The Witch◆

◆From Mercury◆

【続く】

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