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【つの版】ウマと人類史EX32:平治之乱

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 保元元年(1156年)の「保元の乱」は、故鳥羽法皇の近臣と藤原忠通が後白河天皇を担ぎ上げ、崇徳上皇と藤原頼長一派を排除したものでした。これにより摂関家は勢力を失い、後白河天皇の近臣・信西が権力を掌握して国政改革を行います。これが平治の乱の火種となりました。

◆清◆

◆盛◆


保元新制

 保元の乱に勝利した後白河天皇は宣旨(略式の勅令)を発布し、国政改革を宣言します。その主な内容は「荘園整理令」でした。

 743年の墾田永年私財法により、国司の許可を得て開墾した土地は開墾者の私有財産となることが認められました。中央貴族や地方豪族、有力寺社は利益を獲るため大規模な開墾を行い、開発領主が各地に乱立しますが、公領は相対的に減少し、朝廷への納税額は減る一方でした。そのため朝廷はしばしば荘園整理令を発布し、「違法な」荘園を没収して公領としています。

 今回は保元の乱で逆賊とされ死亡した左大臣・藤原頼長の荘園が没収されたため、朝廷には莫大な荘園とその収入がなだれ込みました。このパワーと天皇の権威をもって、朝廷は「九州(天下)は一人(天子)の所有物であって、他の私的権威はない」とし、全国の荘園の所有権は最終的に天皇にあると宣言したのです。とはいえ全ての荘園をなくすのは現実的ではありませんから、あくまで荘園の設置・撤廃の最終審査・決定権を朝廷が持つと強調したまでです。摂関家や上皇・法皇の専横、寺社や武家の台頭で天皇の地位や権威は弱体化していましたし、これはその揺り戻しと言えるでしょう。

 さっそく荘園の審査等を行う記録所が設置され、次々と宣旨が発布されて中央集権が進められます。国政改革を主導した僧侶・信西は後白河天皇の側近として絶大な権力を握り、没収された頼長の荘園の預所(代官)となって経済基盤を確保し、彼の子らや一族も高位高官を歴任・兼務しました。

 また信西は軍事的・経済的な裏付けとして、平清盛を棟梁とする伊勢平氏一門を厚遇しました。保元の乱の後、清盛は受領最高位の播磨守に叙され、弟の頼盛は安芸守、教盛は淡路守に任じられて西国を抑え、経盛は東国を抑えるため常陸介に、清盛の次男・基盛は興福寺を抑えるため大和守に任じられます。荘園整理を実行に移し、地方豪族や寺社勢力を抑え、盗賊や海賊を取り締まるために、伊勢平氏の武力と経済力は必要不可欠だったのです。

後白河院

 しかし、後白河天皇には弱みがありました。近衛天皇が崩御した後、鳥羽法皇とその皇后の美福門院(藤原得子)は孫で養子の守仁親王を後継者に推しています。守仁の実父である後白河(雅仁)は、崇徳院とその子を皇位継承から排除するための中継ぎとして選ばれたに過ぎません。崇徳院の排除が成った今、美福門院は信西に守仁の即位を要求します。彼女は鳥羽院の所有していた荘園の大半を相続しており、信西にも逆らえない実力者でした。

 保元3年(1158年)8月11日、後白河天皇は美福門院と信西の協議により退位させられ、15歳の守仁親王が即位します(二条天皇)。31歳の後白河は太上天皇(上皇)となりますが、国政の実権は平清盛と組んだ信西が、父の所領の大半は美福門院が握っており、「治天の君」とはなれませんでした。それでも彼は頼長から没収した荘園を院領とし、一定の勢力を握ります。

 美福門院は二条天皇を頂いて朝廷を掌握し、後白河院が権力を握ることを牽制します。「九州は一人の所有である」と宣言している以上、上皇が元服した天皇の後見人として国政を牛耳る法的根拠はありません。場合によっては崇徳上皇と同じく罪を着せられて配流される危険すらあります。信西は院の近臣ながら息子らを宮中に送り込んでおり、国内最大の軍事力を持つ平清盛らは信西についていますから杞憂とも言えません。そこで後白河院は藤原信頼を抜擢し、味方につけました。

 彼は藤原道長の兄・道隆(中関白)の末裔で、祖父の基隆は白河院、父の忠隆と自身は鳥羽院の近臣として出世した実力者です。久安6年(1150年)からは前述の通り武蔵守の位にあり、保元の乱の前年には鳥羽院派の源義朝・義平を支援して頼長派の源義賢・頼賢を討伐させています。保元2年には右近衛中将、蔵人頭、保元3年には参議・皇后宮権亮、権中納言と急速に昇進し、後白河院庁が開設されると院の軍馬を管理する厩別当となり、11月には検非違使別当を兼務しました。源義朝は宮中の軍馬を管理する左馬頭ですから、後白河派には伊勢平氏に対抗し得る軍事力がついたのです。

 さらに後白河院は、藤原信頼の妹を関白・藤氏長者の近衛基実(藤原忠通の嫡男)と婚姻させ、忠通派の摂関家を味方に取り込みます。忠通は保元の乱では後白河側につきましたが、摂関家自体が乱と信西の改革で勢力を失いつつあり、信頼・義朝らの武力は荘園管理のためにも必要でした。

 平清盛は保元3年8月に大宰大弐(大宰府長官)に遙任され、嫡男の重盛は遠江守に、譜代の家人・平家貞は筑後守に任じられます。清盛は娘を信西の子と婚約させたものの、信頼の嫡子にも娘を嫁がせており、信西・美福門院派と後白河院派の対立に対しては中立的立場にありました。やがて美福門院派(二条親政派)と信西も対立するようになり、後白河院は信西を排除すべく美福門院派と手を組みます。そして保元4年(1159年)4月、二条天皇即位により改元して平治となります。

平治之乱

 平治元年12月(1160年1月)、平清盛が熊野参詣に赴き、京都に軍事的空白が生まれます。12月9日深夜、信頼らは兵を率いて院御所の三条殿を襲撃し、後白河らの身柄を確保して三条殿に放火しました。信西らを確保するための奇襲でしたが、彼らは危険を察知して逃亡しており、一般の官人や女房が犠牲になっただけでした。信頼は後白河らを二条天皇が住まう内裏の一本御書所に遷し、翌日には信西の息子4人の身柄を確保します。

 信西は南の宇治田原に逃れ、呼吸用の筒をつけた箱を土中に埋めて隠れていましたが、郎党が追手の源光保に尋問されて発見され、掘り返される前に首を短刀で突いて自害しました。光保は信西の首を斬って京都に戻り、首は晒し者となります。信西一派を排除した信頼は政権を掌握し、臨時除目を行って源義朝を播磨守、その嫡子・頼朝を右兵衛権佐に任じます。信頼は義朝らの武力を頼みとしており、清盛とも姻戚関係にあることから味方につけられると踏んでいました。しかし清盛のシマである播磨を義朝に与えたのは、清盛の機嫌を損ねても不思議はない行為です。

 清盛は紀伊国で京都の異変を知り、九州へ落ち延びることも考えますが、紀伊・伊賀・伊勢の郎党を集めて17日に京都へ戻り、軍事力によって他の勢力を牽制します。信頼・義朝の手元にはクーデターを起こすために集めた少数の兵力しかなく、信頼の優位性は大いに揺らぎました。さらに信西派の内大臣・三条公教は信頼を倒すため清盛と二条派を密かに結びつけます。25日に清盛は信頼へ名簿を提出して恭順の意を示しますが、その夜に後白河は仁和寺へ、二条天皇は清盛の住まう六波羅邸へ脱出します。

 これを聞いた摂関家ら公卿・諸大夫は続々と六波羅へ集結し、清盛勢は官軍となり、27日に信頼・義朝を賊軍として追討せよとの宣旨が下されます。仰天した信頼・義朝は内裏に籠もって戦いますが、陽明門を守護していた源光保・頼政らは寝返ってしまいます。官軍は内裏で戦うことを好まず、わざと撤退して義朝らを六波羅付近まで誘き寄せ、囲んで殴って大敗させます。義朝らは血路を開いて東国へ脱出し、信頼は仁和寺に逃亡して後白河院を頼りますが拒絶され、朝廷の追手に捕縛されました。

戦後処理

 信頼は捕縛の当日に清盛の前に引き出され、張本人として処刑されます。義朝は落ち武者狩りに遭い、一族郎党とはぐれた末、郎党・鎌田政清の舅にあたる尾張の長田忠致に身を寄せます。しかし彼は恩賞目当てに裏切り、義朝の入浴中に襲撃して討ち取りました。政清も酒を飲まされて騙し討ちに遭い、忠致は褒美として壱岐守に任じられています。

 義朝の子らのうち、長男の義平は父と別れて東山道へ向かいましたが、父の死を知って京都へ戻り、清盛暗殺を企てたといいます。しかし翌永暦元年(1160年)正月に捕縛され、六条河原で処刑されます。次男の朝長は逃走中に延暦寺の悪僧らによる落ち武者狩りで左脚に矢傷を負い、途中で動けなくなって父に介錯されます。三男の頼朝は2月に近江で捕らえられますが、清盛の継母・池禅尼らに助命嘆願され、3月に伊豆へ流されます。彼の同母弟の希義は土佐へ配流され、他の子らも出家するなどして助命されました。

 朝廷は論功行賞を行い、清盛の子らを伊予・尾張・遠江・越中・伊賀の国司に任じます。永暦元年には上述の刑の他、信西打倒に加わった者たちも失脚・処刑され、二条派と後白河派は和睦して共に政治を行うこととなりました。最大の功労者たる清盛は同年に正三位・参議に叙せられ、武家として初めて公卿の地位につきます。彼は軍事力と経済力を背景として両派閥から中立を保ちつつ、戦乱で淘汰された他の武家に代わって荘園管理や治安維持の職務を担い、国家的な警察権をも掌握します。ここに清盛一門による日本最初の武家政権、平氏政権への道筋が開けたのです。

◆平◆

◆家◆

【続く】

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