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兄貴はつらいよ〜『中村屋酒店の兄弟』を観て

ドラマ・映画好きなキャリアコンサルタント xyzです。

今回ご紹介する映画は『中村屋酒店の兄弟』です。上映時には映画館に行きそびれていたのですが、最近配信で観ることができました。

45分と短い尺ながら、観る人にいろんなことを考えさせる「余白」の多い映画です。

父の死後、実家の酒屋を継いだ兄・弘文のところに、ずっと東京に出たきりだった弟・和馬が突然帰ってきます。

放蕩息子のたとえ話が不意に頭に浮かびました。この聖書の話、子供の学校の講話の時間に聞いて以来、ずっと心に残っているもののひとつです。

放蕩息子の帰還

放蕩息子のたとえ話とは、ルカの福音書に収められているお話です。
とてもわかりやすく、そして面白く、この話を解説しているブログがあるのでここに紹介しておきます。

財産分与を前倒しでしてもらった上に家を出て好き放題した挙句すっからかんになり困り果てて実家に帰ってきた弟と、その間も父と一緒に家を守ってきて真面目に働いてきた兄。そんな弟を歓待する父。これまで真面目にやってきた自分が馬鹿馬鹿しく思えてきて、弟への嫉妬もあり、父に不満をぶちまける兄。

いや、わかりますよ。そりゃ、不満に思って当然でしょと、この講話聞くたびに思っていました。それは、いつのまにか自分が兄目線でこの話を解釈しようとしているからなのでした。でも、このたとえ話の本質は「聞き手(読み手)の私たちは皆、この愚かな弟である」という立ち位置で、だからこそ、この愚か者を誰も非難できないでしょ、そして「愚か者であっても神に愛される存在だ」という赦しと救いのメッセージってことなのかなぁと理解しました。

間違いを犯しても反省して神に許しを求めれば、いつでも神はあたたかく受け入れてくださる……。ええ話や。

とはいえ、兄の不公平感も弟に対する羨望もわかりますけれどね……(小声)(まだ言う)

だったら、兄も我慢しないで思うがままに生きればいいのかな!自律的キャリアを目指して、今からでも後悔しない生き方をすればいいのかも!!(お兄さん、キャリア相談いつでも承りますよ^^)

笑顔の裏に

映画に話を戻します。
兄は、認知症のせいで自分のことを介護士としか思っていない母のことを、ひとり自宅で面倒を見てきました。そんな母なのに、数年ぶりに帰ってきた和馬のことはちゃんと認識できているようで……。

もうこの時点で兄・弘文があまりにも不憫すぎて、誰が悪いわけではないけれど兄には酷な話だなと同情の念を禁じ得ませんでした。

母親の認知症はかなり進行しているように見えました。
見当識障害なのか、人物誤認なのか、長男・弘文をなぜか介護士と思い込んでいる母は、実の息子に対して他人行儀な態度で、一緒にいてもなんだか落ち着かない様子……心からリラックスしていない感じが彼女の表情や佇まいから滲み出ているのですよ。これは息子としては相当こころを削られることにちがいなく。

和馬は自分のことだけ覚えている母に、たまりかねて「何言ってるんだよ、兄ちゃんだろ?」と勢い込んで言いますが、母は兄には何の反応も見せません。

弘文は母のために「親切な介護士」を笑顔で演じ続けます。母を怖がらせないように、礼儀正しく弁えた態度で、他人行儀を貫きます。その笑顔の裏には、つらいことやかなしいこと、激しい怒り、母への思い、弟への思いなどなど、今までたくさん呑み込んできた感情を隠していそうです。

こうした「何でも自分で抱えてしまう」「我慢してしまう」といった自己犠牲的行動は長子的性格からくるのでしょうか。

別の角度から、例えば……交流分析の理論を用いて解釈してみます。

交流分析では、誰でも心の中に3種類のキャラクターがいて、その3種類をさらに5つの自我状態に細分化しています。ちなみに3種類とはP(Parent 親)、A(Adult 大人)、C(Child 子ども)、通称PACモデルと呼ばれています。PとCはそれぞれ2種類あります。

CP(Critical Parent)規範的な親、厳しさ、責任感、批判、高圧的

NP(Nurturing Parent)養育的な親、優しさ、慈愛、共感、過保護、過干渉

(Adult)論理的な成人、客観性、冷静さ、合理性

FC(Free Child)自由奔放な子、明るさ、創造性、本能的、無軌道、自分勝手

AC(Adapted Child)は、従順で順応性のある子、節度、協調性、自己犠牲、抑制

この NP・CP・A・FC・AC のバランスをグラフであらわしたものがエゴグラムで、5つの要素のバランスや出方の濃淡から、その人らしさ…性格や行動、コミュニケーションの特徴や傾向を知る手がかりが得られます。

わたしの想像にすぎませんが、物語のなかの兄・弘文はP要素強め……長子として家を守る責任感が強いのはCP、年老いた病身の母やいろいろと心配な弟の庇護者としての立ち位置を担っているところなどはNPの要素もありかな、そしてACは高めにFCは低めに出そう。。。ということは「自己犠牲的に自分を抑えすぎて、相当なストレスを内に溜めがちなのではないか」と見立てました。

一方の弟・和馬は自分の好きなように生きている(というか自分勝手だし無軌道……)ことからFCは高めに、そして社会人として発展途上(←言い方濁してますw)なところはA低めかな。。。ということは「思い通りにならない現実にストレスを感じて短絡的に現実逃避しがちなのではないか」と見ました。

同じ親から育った兄弟であっても、こんなにも違う……。

わかんねぇよ、お前には

実家の家業を継ぎ、結婚もせず母の介護をする兄。ある意味、家に縛りつけられた人生でした。やりたいことよりもすべきことを優先してきた兄。すべきこと、というよりも、他に選択肢がない状況ですね。文句も言わず、やるべきことをやり、単調な毎日を粛々と過ごしてきた兄。愚痴を言う相手もいなさそうです。

献身的に介護を続ける自分のことはすっかり忘れられているのに、なんなら他人だと思われて遠慮され、時によそよそしい態度を取られることすらあるのに、皮肉なことに数年も東京に行ったきりの弟のことは記憶している母にやるせなさを感じ傷心する兄。それでも笑顔を作って何でもないふりをする兄。

ある一件(ネタバレ回避)で、弟に詰られた兄は、感情も露わに弟に殴りかかろうとします……が、すんでのところで思い留まります。

引き金になった言葉は弟からの「そんなことで人生台無しにしたらどうするんだよ!」でした。

一瞬逆上しかけて、その後「……ごめん」と謝る兄。スッと興奮も冷めてしまう兄。そういうところがいかにも長男らしいというか、自分の感情は脇に置いて自分は悪くないのに弟に謝る兄。我を通さずに譲ってしまうところなど、歳の離れた弟を持つお兄ちゃんっぽさが表れているようで、観ていて苦しく切なかったです。もういっそ弟殴っちゃえばよかったのに、と思ってしまったわたしですTT

拳を下ろして兄が言ったセリフが「わかんねぇよ、お前には」でした。

これまでのことも、これからのことも、すべてのことを諦めて観念しているような兄。だからといって弟を責めているわけでもない。兄の度量の広さというか、田舎の長男としての運命を黙って受け入れている、いや、受け入れざるを得なかった、そんな兄の心のうちや言いしれぬ孤独さが透けて見えてくるような言葉でした。

マジで気ぃ遣ってるとかじゃなくてさ…

帰ってきた弟は、実家の酒屋の仕事を手伝い始めて、兄と弟、いい感じで一緒に働いていました。

ある日、兄が外回りに出て弟が店番をしている間に母の容態が急変し、弟から連絡を受けて慌てて家に戻る兄。

次のカットは、店の前で喪服姿でタバコを燻らせている兄弟のシーンとなり、母が亡くなったことがわかります。

並ぶ兄弟

黙ってタバコを吸い続ける兄弟。
目の前を幼い兄弟が歩きながらふざけ合って、それをたしなめる若い母親が通り過ぎていきます。三人の背中を見るとはなしに見つめる兄弟二人。

沈黙を破ったのは弟の方でした。マジで気ぃ遣ってるとかじゃなくてさ。兄の方を見ないで一気に話す弟。

「母ちゃん、呼んでたよ、最後まで。兄ちゃんの名前」

しばらく沈黙してから兄は「……そっかぁ……そっかぁー!」と返します。
この間合い、二度目の「そっかぁー!」の抑揚とニュアンス。

兄には、弟の気遣いがわかっていたのだと思います。気を遣って言ってるんじゃないとわざわざ付け加えてるけど、弟なりに傷心の兄を気遣ったのだと思います。ずっと面倒を見てきたのにタイミング悪く母の死に目にあえなかった兄。傷心の兄のためについたであろう、弟の優しい嘘

弟にしても、何もしていない、昔は心配ばかりかけた自分が母に憶えられていて、献身的に尽くしていた兄が母に忘れられていることに、申し訳なさや心苦しさ、後ろめたさを感じていたにちがいなく……それがこんな表現になったのかと。

そして弟のそんな気持ちも兄にはわかっていて、敢えて弟の優しい嘘にのってあげる兄。

「釣りにでも行くか!」と明るく言う兄。釣りは二人にとって共通の遊びであり、童心に帰れる場所であり、兄弟のコミュニケーションの場でもあるのです。嗚呼、お兄ちゃん……!

言いたいことは別にあって

映画の中で、兄と弟それぞれが相手に対して「ありがとう」を言うシーンがあります。

どちらのシーンも、二人とも本当に言いたいことを言わず(言えず)、そのかわりに「ありがとう」と言っているように聞こえました。本音を隠してふるまう二人のぎこちなさ

突然帰ってきた弟に対しても「何かあったか」「何かあったんだろ、急に帰ってくるなんて」とずばり切り込む兄でしたが、弟にそれとなくはぐらかされているのを感じるとそれ以上追求はしません。何も聞かず黙って自分を受け入れてくれる兄に弟は気まずそうに「ありがと」と言います。本当は何か打ち明けたそうだった弟……でも急に別室で騒ぎ出した母親に気を取られて話は中断してしまい……。

「兄ちゃんさぁ、なんかやりたいことないの」と聞いてきたり「俺、店やるよ、母ちゃんのことも面倒見るし。にいちゃんが本当にやりたいことやりなよ。こっちは俺に任せてな」と言い出す弟の幼稚さというか自分勝手さというか無神経さにも、腹を立てることもなくやんわり聞き流す兄。笑ってみせても、本当に心から笑っていない感じのする兄。

どこから変わっちゃったんだろう

かつては両親のもとで、同じ屋根の下一緒に暮らしてきた兄と弟なのに、こんなにも二人のこころの距離は隔たってしまった……弟が何か訳アリでふとした拍子に陰のある表情を見せるのも、兄がいつも本音を呑み込んで殊更明るく振る舞うのも、二人の間のこころの距離やピリピリした緊張感に結びついているような……。

昭和然とした佇まいの酒屋兼自宅の様子も、地元の田舎の街並みも、二人でよく釣りに出かけた河原も、時が止まったかのように何もあの頃と変わっていないのに、兄弟は歳をとり、二人の間柄も変わってしまった……お互いが何を考えているのか、心のうちがわからなくなってしまった二人。近くて遠い、兄弟の絆。

映画『ゆれる』も兄弟をテーマに描かれています。

長子として、家に家族に責任感に縛られて自分を殺して生きてきた兄と、そんな窮屈さから早々に逃げ出して都会で自由に生きてきた弟。

「ねぇ、なんで?」
「なんでお前と俺はこんなに違うの?」

映画『ゆれる』より稔のセリフ

弘文は、『ゆれる』の稔のように口には出さなくても、自分と弟の境遇の違いを複雑な思いで噛み締めていたのかもしれません。

踏みとどまれるか、一線を超えてしまうか

さて、兄は弟のある秘密(ネタバレ回避)を知りながら、知らないふりをします。その後しばらくして弟は、兄が自分の秘密を知ってしまったことを知ります。

お互いにその事実を相手に悟られまいとしますが、弟が突然「明日一旦東京戻るわ」と言います。そんな弟に「いつでも来いよ」と返す兄。

兄はどんなに辛いことがあってもギリギリのところで踏みとどまれる者であり続けて、弟は辛さに耐えかねてある一線を超えてしまった者になりました。両者を分けた違いは、ままならない/思うがまま、しがらみ、枷のある/なしでしょうか。

まったく違う種類の人間だけれど、それでも兄弟で。たった二人の兄弟だから、結局兄は弟を見放さず弟は兄を頼ってほしいな……と思いました。

兄の覚悟、弟の覚悟

最後まで兄は弟を案じ、逃げ道居場所(帰る場所)を弟のために作っていたのが、弘文という人はどこまでも「お兄ちゃん」なんだな、兄として弟を守る覚悟があるのだなと、兄の性(さが)を改めて感じました。

別れ際に弟からタバコを一箱もらった兄が「ありがとうな」と言った時の弟の表情が、兄に見送られて歩き出す弟の表情が、なんともいえない硬い表情でした。
涙は流れていないけれども瞳は泣いていて……もう弟はここには戻ってこないのではないか、そんな覚悟で再び家を出たのではないかと思いました。

別れ際の兄の表情からは赦しが感じられて、そんな兄の気持ちが弟に伝わってほしいな……とエンドロールに流れる音楽を聴きながら、弟のこれからを案じてしまいました。

兄と弟、近くて遠い……。
そういえば、かの『枕草子』でもこう記されていました。さすが清少納言!

近うて遠きもの。宮のべの祭。
思はぬはらから、親族(しぞく)の中。
鞍馬(くらま)のつづらをりといふ道。
師走(しわす)のつごもりの日、正月(むつき)のついたちの日のほど。

現代訳)近くて遠いもの。宮咩祭(みやのめのまつり)。
思いやりのない兄弟や親戚の仲。鞍馬のつづらおりっていう坂道。十二月の大晦日と一月一日の間。

枕草子

平安の昔も令和の今も変わらないのが人間の営みなんですね。(清少納言のセンスとか言葉のチョイス、大好きです✨)

それでは、今回はこの辺で。
最後までお読みいただき、ありがとうございました^^

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