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知的素敵複眼的

うろついていた本屋の一角に、聞き覚えのあるタイトルが平積みになっていた。

刈谷剛彦『知的複眼思考法』 講談社+α文庫

本屋が夜空だとしたら、この文庫本のくすんだ星のような輝きは、きっと僕にしか見えなかっただろう。

手を伸ばし、さっと中身を確認する。特に、まえがきとあとがきに注意して目を通した。

本屋をはなれ、古本屋に向かった。先ほどと同じタイトルの文庫本を探す。

刈谷剛彦『知的複眼思考法』 講談社+α文庫

あった。

長い間探していたものが、ようやく見つかったと思った。古い記憶の底から、深い安堵と高揚がこみあげてきて、しばしの間、僕は本棚の前で足の痺れも感じずに立ち尽くした。

新刊書店で見た文章と、この本の文章を、頭のなかで照らし合わせてみると、もちろん、細かいところまでは分からないが、内容に関していえば、少なくとも大きく違うということはないようだ。

やはり、違っていたのはカバーのデザインだけということになる。だとしたら、僕が欲しいのはこの古いカバーの方だ。確信を得ると、もう足どりに迷いはなかった。


この本については、ちょっとした思い出がある。

大学生のころの話だ。その日は、福井県から上京して一人暮らしをしているFの部屋に、仲間たちと遊びに行った。近くのコンビニに集合し、酒とつまみを調達してから、Fのアパートに向かった。群青の空にともりはじめた街灯の下を、僕らはがやがやと、かたまって歩いていった。坂だらけの入り組んだ道を。案内がなければとてもたどり着けない、世界の片隅のような場所まで。

リビングスペースが意外に広く、隅にはクローゼットとロフトがあった、と思う。部屋の空間についての記憶もあいまいながら、そもそも、あの日僕らは何をしたのかと訊かれれば、その記憶はさらに心もとないのだった。酒を買っていったから、酒を飲んだのだろう。あのころはどうも、集まってそこに酒さえあればあとはどうにでもなる、という空気があった。

夜も更け、場も落ち着いてきたころ、誰かがおもむろに本棚から本を抜き出して遊び始めた。そのうちの一冊だった。

「知的複眼思考法」

声に出して読みあげられると、みんなが笑った。

僕も笑った。

ああ、いいな、と思った。きっと、みんなも同じようなことを感じて笑ったんじゃないだろうか。それは、いかにもFにふさわしい、と。

僕はこのとき、ある人がある本を読んでいるということを、はじめて面白いと感じた。

Fのまわりには、いつも自然と人が集まっていた。この日だってそうだ。やや気だるげな話し方、尽きない話題の多さ、それから豪快な笑い声は印象に残るが、けっしてそれだけではない。Fのたくみなコミュニケーション能力、それを背後から支えていたのは、たんなる同情や、その場の空気にあわせたふるまいではなく、紛れもない本物の教養、知的な態度だったのだ。その認識は、「知的複眼思考法」、そのタイトルの綺羅星のような輝きとともに、このとき僕の記憶にはじめてはっきりと刻み込まれたのだった。

酒席ではいつのまにか、ゲーテと川端康成の話になっていた。僕は感心して聴いていたけれど、内心では、話についていけない自分を恥じていた。いまになってみると、Fの気持ちも少しだけ分かるような気がする。誰もついてこれない話をFがするのは珍しい。それでも時折、言葉をこぼした。Fはきっと、もっといろんなことをしゃべりたかったのだと思う。そしてそれは、あのとき僕がもっとすぐれた人間だったら、できたことなのかもしれなかった。


あれから幾年の時が過ぎ去ったいま、ようやく手に入れたこの本を読んでみると、なんてことはなかった。

Fにあこがれて、

Fともっと話したくて。

あれから僕も多くの本を読み、考え、自分なりに知性を磨いてきたつもりだ。

見えない背中を追い、暗闇を走るようにページをめくり続けた日々が、僕のあずかり知らぬところでいつしか、実を結んでいたのかもしれない。

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静かに本を閉じると、黄金の文字が映画のエンドクレジットのように、きらりとリフレクションする。

遠い憧れを。

過去の思い出を。

星のように。

僕は手を掲げ、

それを、本棚に納めた。

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