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幸福論考 6/n ~幸福とは~

「勇気ある人には、幸福と不幸とは右手と左手のようなものです。」(シエナのカテリナ)

『幸福論(第一部)』カール・ヒルティ著 草間平作訳 ワイド版岩波文庫 p61

 幸せって、何だっけ?
 この問いはおよそ気が遠くなるほど長い間、我々人類の間で問い続けられてきたであろう問いである。
 かくいう僕自身も福祉をなりわいとしている身であることから、この問いからは避けられない運命にある。
 この問いに対する回答は、これまで数多くの人達 - その中には"偉人”と呼ばれる人も多数いたであろう - が出してきたが、未だ全世界の共通認識となった回答はない。
 もちろん僕も「これが幸福です」と言えるような回答に到達したわけでは全然ないが、ここまで幸福について勉強してきた一旦の小括として、2023年7月現時点での僕の『幸福』についての考察を記そうと思う。

『幸福』の定義づけの試み

 まず、結論からいって幸福とは定義が出来ない・もしくは相当に困難である。
 こう言ってしまうと身も蓋もないのはちゃんと自覚しているが、せめてその理由を述べると、以下のようになる。

1.個別性が高い。

 ある人にとっての幸せが他の人にとっての幸せとは限らないということ。
 例えば、僕がお酒を飲むのが好きで週末にオシャレなBARで一杯やるのが幸せだと考えていても、お酒を飲まない人にとってはそれは幸福でも何でもない、といったことが簡単に起こり得る。
 人によって幸せの形が異なる。それはもう千差万別に。

2.流動性が高い。

 また同じ個人であっても過去と現在とでは幸せと感じることが異なる場合があること。
 例えば、以前は仕事をバリバリ頑張って出世し、年収を上げることが何よりの生きがいであったが、今はそれらへの興味は薄くなり、それよりも何か社会の役に立つ活動に参加することにやりがいを感じるようになった、など。
 人間は常に変化する動物であるため、同一個体であっても必然的に幸せの形も変化し得るのだ。

3.環境依存性が高い。

 上記1と2にも関係することだが、生まれ育った・また現在生活している土地柄や文化が定義している『幸せ』の形にかなり影響を受けること。
 最もわかりやすいのが宗教。自分が生きている社会や文化は自我や価値観の前提となる。周りのみんなが「幸せ」と言っていることは自分にとっても「幸せ」だと認識しやすくなる。
 これはサンデルのいう「負荷のある自己」と同義だろう。

 以上の理由から、僕は『幸福』を定義することは困難であるという結論に至った。少なくとも全人類共通の「絶対幸福」というものは存在が疑わしい。

不幸から考える。

 とは言ってもそのまま終わりにすることが出来ないから無理矢理にでも定義づけようとすると、下記のことは言えると思う。


幸せとは、「不幸ではないこと」である。


 つまり冒頭のシエナのカテリナの言葉でもあるが「幸福と不幸とは右手と左手」のようなものなのである。
 先に述べたように「幸福とは何か」について確実なものを挙げるのは難しい。しかし、確実な不幸は存在する。例えば理不尽な暴力に晒され、生命が奪われたり、尊厳が傷つけられることは、誰であっても・どの文化圏であっても・どの国であっても、確実に「不幸」である。
 ここから考えると、反対に幸福とは、この「確実な不幸」"ではないもの”ということは言える。だから「右手と左手」なのである。もっと言えば、幸福とは不幸という光が生み出した影だと言うことも出来るだろう。
 しかし、この定義は必要条件であって十分条件ではない。ただ、現実場面においてはここから1つの方向性を得ることが出来る。それが福祉だ。

 つまり福祉とは人々が幸福になるためのサポートをする仕事であるが、肝心要の『幸福』が何だかわからない。ただ「不幸ではないこと」というのはわかる。であるなら、まずは「全人類の不幸を減らす」ことが福祉が担う役割ではないかという方向性である。

 これは東京大学名誉教授の月尾嘉男氏が述べていること - 「政策としては不幸を除去していくことが優先課題」 - と同じである。

    また「全人類の不幸を減らす」ことが目的なので、「誰かが幸福になることで、誰かが不幸になる」ということは受け入れられない。これはある意味で市場経済や自由主義とコンフリクトする部分があるということになる。

 『福祉』についてはまた別の機会に書きたいと思っているが、「人類の不幸を減らすこと」「人類不幸に対する義憤」「人類不幸を生み出している体制・権威へのアンチ」、このようなものが今僕が考える『福祉』だ。

 要は『福祉』とはパンクスなのだ。

ひとりでは幸福になれない。

 次にもう一つ、『幸福』について、十分条件ではないが必要条件を提示しておこうと思う。
 それは、「幸福とはけして一人ではなれない」ということである。

 上記に述べた、「『幸福』の定義については難しいので一旦脇に置いておいて、むしろ「不幸を減らす」ことに重点を置く」という立場をアメリカ的意味合いでのリベラリズムという。(僕はこの立場に近い)
 それに比べて、「積極的に『幸福』について語ることを前向きに捉える」という立場をコミュニタリアニズムという。僕は『幸福』の定義づけは困難だと思っているのでコミュニタリアニズムとはそこでは立場が違うのだが、他方でコミュニタリアニズムは「個人というものを完全に独立した存在として捉えず、共同体・コミュニティ、そこでの人と人との関係性を重視する」という立場も同時に取っており、その点は僕も完全に同意する。

 公共政策と科学哲学の研究者である広井良典氏は編書『福祉の哲学とは何か』(ミネルヴァ書房)において、宮沢賢治の秀逸な言葉を引用し、コミュニタリアニズムのその立場を端的に説明している。


世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない。


 また世界三大幸福論の1つとして名高い著書を記したカール・ヒルティはその『幸福論』の第一部から第三部において、ところどころで「幸福には苦難が必要」といった主旨のことを述べており、その理由の1つに「他人への気遣いが出来るようになるから」といった意味合いのことを挙げている。

 僕自身よく『人間』という言葉の"間”という言葉を重視している発信をしている。"間”は一人の人と、少なくとももう一人が存在しなければ生まれない。僕達は他人がいて初めて『人間』なのである。
 "間”とは関係性のことであり、この"間”から様々な嬉しいことや楽しいこと、反対に悲しみや苦しみが生まれる。そして幸福も不幸もこの"間”から生まれる。

 僕達は単独で存在することはあり得ず、たえず他人との関係性の上で相互に作用しながら存在している。ということは、どこか一部分に何らかの負担がかかり続けたら(これを不幸と呼ぼう)、それは必ず関係性の線を辿って他に伝播し、人類全体で不幸になるのである。
 だから「世界ぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」のだ。
 そしてこの関係性の線はIT化・グローバル化を通して、ますます大きく・強くなっている。もはや地球上のどこかで起こる不幸について、「自分には関係ない」という他人事ではいられなくなる。

自然との接続

 ましてや、人類だけではない。「ウェルビーイング」という言葉が語られるとき、それは「人類のウェルビーイング」という文脈で語られるが、人類が単独で生き延びられるわけがない。必ず自然と共存しながらでないと生きていけない。自然が不幸になるとき、人間も不幸になる。
 なのでウェルビーイングは「地球のウェルビーイング」として語った方がよい。
    よしんば先述のコミュニタリアニズムの立場に立つとして、要の「コミュニティ」をどう捉えるのか?人間が決めた行政区をイメージしがちだが、そうではなく、例えば自然の山河を単位とした「流域」圏で考えたらどうか。
    流域圏を単位としたコミュニティでは自分の住んでいる地域を意識する。「ここは○○水系のコミュニティ」といったように、どの山河の恵みを得ている地域なのかを意識する。それは人間が「自然に接続する」ということではないだろうか。そして、接続した自然を通して地域の人間関係と繋がっていくのだ。こうしたとき、自分の住んでいる自然を汚そうと思う輩は随分減るのではないだろうか。そしてそれはコミュニティとしての帰属意識を強めるのではないだろうか。
    これからの福祉は環境問題も包含した営み・学問であるべきだ。

『幸福』とは何か

 ここまで考察してきたことをいったんまとめてみると次のようになる。
①『幸福』の定義づけは困難である。
②『幸福』は「不幸ではないこと」である。
③『幸福』はひとりではけしてなれないものである。
④『幸福』は、人間だけでなく、地球単位で考えるものである。

 我ながら断片的に『幸福』の端っこを掴まえたに過ぎないと思う。しかし、そこに最後にもう一言だけ付け加えてこの考察を完了しようと思う。

 それは、「『幸福』とは誰かに決められるものではない」ということだ。

 ①の「定義づけが困難」ということに立ち返ると、やはり『幸福』は個別性が高いのだ。だから誰かに「幸せとはこういうものである」とか「これが幸せというもんだ」と言われて決まるものではない。それを言っているのがどんな権威者・知者・聖者であろうと、だ。

 何が幸せかは僕達一人ひとりが自分の人生を、他人との関係性を通してもみくちゃになる人生を、一生懸命生き抜いていって初めて辿り着ける境地である。だから『幸福』とは何か?の問いは誰かに教えてもらうのではなく、必ず自分自身で見つけ出さなくてはならないのだ。

「わたしは自分が何を欲しないかを知っている。しかし、何を欲するかは、まだ知らない。それは、必要になったときに、はじめて分かるだろう。」

『幸福論(第三部)』p107

<参考文献>
『幸福論(第一部)』カール・ヒルティ著 草間平作訳 ワイド版岩波文庫
『幸福論(第二部)』カール・ヒルティ著 草間平作・大和邦太郎訳 ワイド版岩波文庫
『幸福論(第三部)』カール・ヒルティ著 草間平作・大和邦太郎訳 ワイド版岩波文庫
『福祉の哲学とは何か - ポスト成長時代の幸福・価値・社会構想』広井良典編 ミネルヴァ書房

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