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原始時代から考えるパートナー選び

どの時代も、恋愛パートナー選びは人々の心を捉えて離さない関心事です。
では、原始時代に立ち戻り、人類の遺伝子にどのようなプログラムがインプットされているか、という視点でパートナー選びを捉え直すと、どのような光景が広がるのか。そのことを考えてみたいと思います。
 
人類に話を進める前に、原始動物から考察を始めたいと思います。
 
魚類や鳥類には、視覚的効果で異性を惹きつける種族がおります。繁殖期になると色が変わったり、独特のトサカや孔雀の羽のようなゴージャスな見かけでアピールします。

見かけは最も分かりやすいメッセージです。ただ、この「見かけ戦略」には、異性として選択される戦略以上の「生存戦略」がありません。孔雀のゴージャスな羽は、日常生活の生存競争の中では邪魔でしか無いはずです。生存戦略は、「個体としての強さ(アルファ・オスメス)」を誇示して初めて成り立ちます。
 
そういう意味では、見かけは最も原始的な魅力である、ということができると思います。個体としての強さを選択するのは、生物が記憶力や群れでの組織行動を獲得してから以降、ということになります。記憶力や思考能力がない魚にとっては、「彼は泳ぎっぷりがいいねえ。」「エサへの食いつきがすごいな。」ということは異性選択の基準にはなりません。

群れで組織行動をする哺乳類へ進化し、個体の強さを意識した選択が始まります。記憶力により、誰が山のボスか、誰が強いか、程度のことは認識・記憶されるようになります。
人間で言うと、「ワルい男がモテる」という現象はここに根ざしていると思われます。攻撃力が高いオスは、生き残る確率が高い。

やがて人類へと進化し、社会的動物としての進化を始めます。ムラで生きていくために何が有利か、という視点が加わります。ムラに役立つ素質は何か、と考えると男性の場合は集団のために勤勉に働くこと、女性の場合は家庭的で家族や子どもの世話を良くすること、という要素が現れます。このことは余り論じるとジェンダーの論客に批判を受けそうなのですが。そういう好みの傾向がありますよ、ということです。
 
胎児が体内に宿って成長するとき、受精卵から分裂して成長するさまは、生物の原生動物から哺乳類、人類への進化を短期間で再現すると言います。同様に、「恋愛のトリガー」は、成長段階に応じて原始的なものから高等動物の社会的要素へと進化する。
 
子どもが最初は見かけだけで「カッコイイ。かわいい。」と見るのが、思春期に強いオスメスを意識するようになり、やがて社会的ステータスを気にするようになる。とても興味深いことです。
 
さて、異性選択に社会性要素が加わる。それは必ずしも「優秀な異性」のみが選択されるわけではないことを意味します。「個体の強さ」だけではなく、「ムラとして生き残る」ための論理が遺伝子に組み込まれ始める。
 
「だめんずウォーカー」という漫画が昔流行りましたが、ダメな男を好きになる、という女性がいます。あの人、私がいないとダメなの。このことは動物の世界では説明しにくい。男女の対極で言うと、「魔性の女に惹き寄せられる男」というのも存在します。「魔性の女」というのはフェロモンたっぷりのフジコちゃ~ん、という分かりやすいステレオタイプではなくて、私の見た中では大人しめで素朴な雰囲気、という人が多い。隙が多くて距離感の無い近寄り方。本人は「私天然なの~」とか言う。

私はこのことが、「社会的進化が与えた副産物」ではないかと思っています。アルファ・オスメスを選択するだけでは無い。アルファを外れた異性を「救済」する選択を取らせることが、ムラの人口維持をする点においては必要だったのではないか。
 
以上のような仮説に立って、恋愛を構成する要素のうち、どれが遺伝子レベルの現象で、どれが打算なのか、客観的に捉えることが理解を助けます。
 
恋愛におちいった時に、人間の脳内にはドーパミンなどの脳内麻薬が分泌され、その中毒症状が3ヶ月ほど続く、と言われます。これは体内の化学反応ですから、遺伝子に組み込まれた人体の機能、と言うことができます。すると、打算によるものは脳内麻薬を発動しないはずです。「あの人は学歴が高い」「お金持ちだ」ということに惹かれて心がときめき、四六時中それに焦がれている人は多分いないと思います。それらはせいぜい2~3千年のタイムスパンで現れた概念で、まだ遺伝子には組み込まれていません。
 
強調したいのは、生物進化として遺伝子に組み込まれた時代の「恋愛ニーズ」と、現代社会における「恋愛ニーズ」は異なる。そのギャップに苦しんでしまう事例があるのではないかということです。例えば攻撃的なワルい男性を好きになる遺伝子は依然強く組み込まれているが、現代社会の文脈ではそれは優位性では無い。

遺伝子の中には、生物進化のプロセスで必要だったが現代社会では不要となった「捨てプログラム」がまだ生きています。例えばダメな男に尽くしてしまう女性、それが生まれついた性格と言われれば止める権利はないのですが、その遺伝子は「ムラの存続」のために働いている、ということを理解しておく必要があります。
 
また、行き過ぎた「恋愛崇拝」にも警鐘が必要です。「大恋愛の末に成就するのが運命の出会い」という根強い信仰があります。「大恋愛」の定義は様々ですが、前述した脳内麻薬中毒の3ヶ月が必要条件となっている可能性が高いです。そうすると、人は「運命の出会い」に、動物として進化した、現代では不要な幾つかの条件を当て嵌めていることになります。
 
見かけとワルっぽさに惹かれた結果の生活が破綻した、というのは罪なことです。同様に、「ステータスと条件に惹かれた打算的な付き合いだ」と主張するのも不毛なことです。遺伝子も、思考計算もどちらも結局は有利な選択を探しており、「打算的」議論は、それが現時点で遺伝子に組み込まれているか、まだ組み込まれていないか、という違いに過ぎないからです。

自分の遺伝子にどんな特性が組み込まれているか、そして私の人生に必要な人はどんなひとか。その2つを整理して把握し、実際に選択した方を肯定するための材料とするべきです。選択しなかった方を羨む「青い芝」現象は、元々両方取りのできない、無いものねだりである可能性が高いからです。

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