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【ショートショート・小説】「最高傑作」

「アートに完全なんてないんだ」

 コバヤシという男はそうつぶやきながら歩き続ける。目的などなく。 

――

 いつの時代も、人類は完全を目指してきた。
 現代科学最大の産物である、知能や身体、精神の能力増強、すなわちエンハンスメントが当たり前になってどれほど経つだろうか。

 この世に生まれ落ちたときから言葉を話し、歩き出す。義務教育は一年で終わり。子どもたちは博士の学位を十歳までに取り、それぞれ科学者や官僚、起業家へと道を進める。
 いずれも、エンハンスメントを人々に施した結果だ。
 裕福な家庭の子どもたちは、生まれる前に母体を通して薬剤のエンハンスメントを受ける。直接受精卵や胚、肉体改造をするという方法も以前は取られたが、障害を持つ確率が高いため現在では注射を用いて薬剤を投与する場合が主流となった。

 エンハンスメントの恩恵を受けるのは子どもたちだけではない。大人たちもだ。
 スポーツが良い例だ。野球でピッチャーが投げる球は新幹線越えの時速300kmが当たり前となり、チーターを上回る速さの世界で100m走を競い合う。この熾烈な競争を制するためには、エンハンスメントが欠かせず、誰しもが注射を一本、チクリと打って試合に挑む。

 エンハンスメントには大きく分けて二つある。一度施したら一生続く持続性のものと、時間が経てば元の状態に戻る一過性のものだ。例えば、出生前に受けるエンハンスメントは持続性のもので、スポーツの試合で受けるものは一過性のものが多い。

 エンハンスメントによる限界突破により、いくつもの社会問題が解決へと向かった。
 一日持続する興奮剤SCK剤により、底知れぬ体力と集中力、パフォーマンスを人々は発揮できるようになった。何時間も働いても疲弊しないため、世界中で長時間労働と生産性の向上が可能となり、多くの労働問題は解決した。
 他にも、宇宙物理学に関する科学的発想を刺激するUCU剤は、火星に移住するために必要な技術開発を促進させた。その結果、太陽の膨張により地球上での居住が難しくなるという大きな不安を解消し、人々を安堵させたのだ。

 一方で、残念なことにエンハンスメントが人々の脅威になってしまった例もある。
 軍事分野では、先ほどのSCK剤を用いて疲れることのない軍人の部隊を作り上げ、UCU剤を使った兵器開発者が誤差1mmの精度で標的に落下し、一発一瞬で世界の半分以上を破壊する核ミサイルを開発した。
 より身近な脅威では、プログラミング技術を増強するHKKNG剤を悪用して銀行をハッキングしたり、死に対する恐怖心を減少させるKWKNI剤を投与して、自爆テロを決行する例がある。
 しかし今では、このような脅威の大部分は排除され世界は平和に向かっている。まさにユートピアといったところか。

 さて現代はエンハンスメント時代とでもいったところだが、これまで見過ごされてきたものが一つある。

 それはアートだ。

 アートのエンハンスメントがこれまでほとんど存在しなかったのは、アート作品を創作するときに生じる心身の動きの解明が難しかったことが大きな理由だった。エンハンスメントを施した科学者が束になろうと、アートの曖昧さと脳の複雑さを前には歯が立たなかったのだ。また、アートがあろうとなかろうと、生物として死に至ることはないことも後押ししていた。

 しかし、だ、
 究極のアート作品が見たい。科学の限界など知るものか。とにかく究極のアート作品が見たいのだ。
 アートの消費が盛んとなった現代において、究極のアート作品の誕生が望まれるのは必然である。大衆の渇望を満たすために、そして、己の好奇心を満たすために、科学者たちは熱心に研究開発に取り組んだ。

「うーん、ある程度目星がつくのだが……。そこまでしか進まない」
「これっぽっちの材料ではとても薬剤の開発までには至らないぞ」

 あらゆる科学者がうんうんと頭をひねるものの、研究は全く先に進むことなくお手上げ状態。
 最終的に一人の天才科学者の活躍に期待する他なかった。果たしてエンハンスメント時代に、「天才」という表現が適切であるかわからないが。

「これは、天才科学者ムラカミ博士に託すしかない」
「ムラカミ博士ならこの状況を打開してくれるはずだ」

 孤高で至高、稀代の天才科学者ムラカミ博士は、これまで数々の功績を残してきた。開発した薬剤の代表例は、外科手術を支援するYC‐YCR剤、パティシエ育成を支援するP‐SEN剤、一発で人の顔が覚えられるようになるKO‐OBE剤、折り紙が得意になるORGM剤と、実用的な物からユーモアのあるものまで様々だ。

 「アートのエンハンスメントについては耳に入れていたよ。大変興味深いものだ。実は、既に試験的に薬剤の開発も進めていたところだよ」

 周囲の後押しを受ける前から、ムラカミ博士は非常に前向きな姿勢を示しており、試験的に能力増強剤MS‐MZ剤を開発していたのだ。MS‐MZ剤は模写や模造が得意になる薬剤で、アート作品を作る上で基礎となる能力を高めてくれる。

「MS‐MZ剤の臨床試験が成功したら、本格的にアートのエンハンスメントに関する薬剤の開発に取り組む予定だよ。なに、何も不安に思うことはない。私なら開発してみせる」

 実力と実績に裏打ちされたムラカミ博士の自信は、科学者たちを安心させるものだった。

「うむ、ムラカミ博士ならやってくれる。あの自信は本物だからこそ持てる自信だ」
「あのムラカミ博士だ。天才的な発想でアートの世界を進歩させてくれるだろう。非常に楽しみだ」

 かくして、ムラカミ博士の、アートのエンハンスメント実現プロジェクトは始まった。

プロジェクトを進めていく上で、ムラカミ博士の頭脳では解決できない問題が、二つあった。アートの専門知識を持つ人員の確保と資金繰りである。
 ムラカミ博士がこれらの問題を解決するには困難を極めた。
 人員の確保と資金繰り、共通する最大の困難は、アート界にはエンハンスメントを快く思っていない人が多いということだ。アートとは自然の摂理に則って行なわれるべきであり、純粋に人間の能力で創作活動すべきだ、エンハンスメントなんてもってのほかだ、という反エンハンスメント主義がアート界では大きな勢力となっている。
 ムラカミ博士は反エンハンスメント主義に嫌悪感を覚えている。

「エンハンスメントに反対する人がこれほどいるなんて。彼らには科学的探究心というものがないのか。時代錯誤も甚だしい」

 今回のプロジェクトに協力的な人を見つけるのは難しく、例え協力的な思想を持っていても、アート界のつまはじきとなることを恐れ、なかなか手を上げることが出来ない。

 しかし流石はムラカミ博士。風当たりの強い状況下でも、人員の確保はどうにか進んだ。
 ムラカミ博士は五名のアートの専門家とチームを組み、アートのエンハンスメントの薬剤開発を進めていくことにした。
 A氏は絵画を専門にしており、新進気鋭の芸術家である。
 絵画の専門家として他にも芸術家B氏がチームに加入した。B氏は世界的権威であり、芸術に携わっているもので知らないものはいない。
 アートは平面の絵画だけではなく、立体を扱う分野もある。彫刻の専門家としてC氏、建築の専門家としてD氏が研究に参加した。
 また、理論面からのアプローチも重要だと考えたムラカミ博士は、アートを歴史的に研究する美術史や、美を哲学的に分析する美学を専門とするE氏をチームに追加した。
 心強い人員が集まり、ムラカミ博士は安堵した。

「これで十分な人員が揃ったぞ。これほどの芸術家が協力してくれるなんて、百人力だな。感謝申し上げる」

 残された問題は資金集めである。

「さて、アートのエンハンスメントを実現するための頭脳は整った。しかし、これだけ難しいプロジェクトを進めていくには、潤沢な資金が欲しいところだが……」

 資金集めがそれほど得意でないムラカミ博士に、良い解決策は見当たらなかった。
 というのも、アート界の反エンハンスメント主義の強さに加え、これまでムラカミ博士は実用的、すなわちお金になる薬剤や、実用的ではないが小規模で済む薬剤の開発ばかりしてきたからだ。いくら注目が集まっているとはいえ、娯楽であるアートは金にならない上、今回は巨大なプロジェクトになることは間違いない。
 資金の問題を解決したのは、近年急成長を遂げているIT企業の社長、ウシロザワ社長の一声であった。

「ほう、資金繰りで困っているようですね。ムラカミ博士」

 ウシロザワ社長は、ありとあらゆるアートをこよなく愛する人物で、反エンハンスメント主義の立場を取らない、珍しい人物である。また、新しい科学技術を待ち望んでおり、今回のアートのエンハンスメント実現プロジェクトのことを聞きつけて、是非資金提供したいと、ムラカミ博士の元を訪ねてきたのだ。

「資金のことなら、任せてください」

まさかの申し出にムラカミ博士は興奮する。

「えっ!? 恐ろしいほど大金になりますが、大丈夫でしょうか……」
「何も不安は要りませんよ。大船に乗った気持ちで、ドンと構えて研究に励んで下さい」
「ありがとうございます! ウシロザワ社長のお力添え、決して無駄にはしません」
「そんな、堅苦しく考えなくて構いませんよ。ただ一つお願いがありまして、エンハンスメントされた芸術家が生み出した作品を最初に見せてもらってもよろしいでしょうか」
「もちろんですとも。我々と一緒に世紀の瞬間を味わいましょう」

 ムラカミ博士は歓喜し、同時に身を引き締めた。
 人員確保と資金繰りの問題が解決し、その後MS‐MZ剤の臨床試験も無事成功に終わった。あとはアートのエンハンスメント実現に向けた研究に没頭するだけとなったムラカミ博士。寝る間も惜しんで研究に励み、これぞ天才と見せつけんばかりの、とんでもない速度で成果を出していった。

 プロジェクトが発足して約一年後、ついにアートの持続性能力増強剤GIJT剤が試験的に完成した。当初十年はかかると見込まれていたが、試験的段階とはいえ十分の一の期間で第一弾を産み出してしまうとは、ムラカミという人間は恐るべき天才、いや、知能のエンハンスメントの賜物だ。
 まだ試験段階ということや、反エンハンスメント主義からの攻撃を避けるため、ごく一部の関係者のみ集めて、GIJT剤についての報告会を行なった。
 ムラカミ博士はGIJT剤について語り始める。

「非専門家もいるので簡単に説明すると、GIJT剤は、外部からアーティスティックな刺激を受けるときに反応する脳領域と、創作活動を行なうときに働く脳領域の両方の神経細胞のやり取りを強くする作用を持つ。その結果、感受性が豊かになると同時に、自分の中のイメージを具現化する能力が増強される」

 美術史・美学の専門家E氏が独りごちる。

「簡単ではないじゃない。よくわからないわ」

 何も聞こえていないムラカミ博士は続けて全体に説明する。

「加えて、GIJT剤は少々変わった薬剤でね。他の薬にはない特徴がある。それは、アートに関するあらゆる能力を増強することだ。例えば、TNKR‐KNNK剤は筋肉増強剤だが、短距離走に特化しており、長距離には対応していない。しかし、このGIJT剤は油絵や水彩画、彫刻、デジタルアート、建築、空間デザインといった広範なジャンルの能力を増強する」

 絵画の芸術家A氏が質問する。

 「なぜ広範的に作用するように設計したのですか」

いい質問ですね、とムラカミ博士は返し、こう答えた。

「それは、唯一無二のアートというものを目指して欲しいからです。本来、アートというものは枠にとらわれちゃいけない、とA氏含む五名の先生方からご意見いただきましたね。そのことを踏まえた結果、一つの枠に捉われず、あらゆる可能性を模索できるように、広範的に作用する設計になった次第です」
「その結果、器用貧乏になってしまう、すなわち何一つ成せないということはないのですか」
「その可能性は低いでしょう。実際、類人猿を用いた動物実験では良好な結果を得られていますし、人工脳を使った実験でもでも期待通りの成果が出ています」
「なるほど。わかりました、ありがとうございます」
「他に質問はありませんか」

 パトロンであるウシロザワ社長が手を上げる。

「それで、人間に投与するのはいつからになりますか。話を聞いていると早く成果が見たくて仕方がなくなる」
「まもなく被験者が決定するので、その後すぐに始まります。およそ一週間後を予定しております。私としても非常に楽しみで仕方ありません」
「おお! 心待ちにしております」

 その後も質問が相次ぎ、説明会は当初の予定より一時間ほど長引いたが、無事に終了した。

 一週間後、待ちに待った日がやってきた。GIJT剤の被験者が決まったのだ。
 被験者である芸術家の卵コバヤシ君は、E氏の勤務する美術系大学の美術学部絵画学科の学生だ。E氏によって被験者の募集が行なわれたが、秘密裏であったにも関わらず、応募は百名を超した。これは美術学部の大学生・大学院生の七割近い人数である。

「若い子はチャレンジ精神があって素晴らしい。反エンハンスメント主義はどこへやら。科学でアートを創造するという前例のない挑戦に勢いよく飛びついてくる」

 ムラカミ博士は満足げにそう語った。

 経歴や面接、実技などを総合的に審査した結果、コバヤシ君が被験者として選ばれることになった。コバヤシ君は二年生ながらニューヨークで個展を開き、一千万を超える高値で作品が売買されるなど、注目のルーキーである。
 ムラカミ博士の研究室で事前説明を受け、GIJT剤の投与の直前、リラックスのためにも被験者コバヤシ君にムラカミ博士は話しかける。

「コバヤシ君、君は勇気ある青年だよ。そして、その勇気によってチャンスを勝ち取ることが出来たのだ」
「このような機会を与えて下さり、ありがとうございます、ムラカミ博士。これから自分がどういう風に変わっていくのか不安とワクワクが入り混じっています」
「うんうん、そうだろうね。でも大丈夫。君は数時間で、どの世界のどの時代を見渡しても存在しないような、大芸術家へと変貌することを保証しよう」

 ついにGIJT剤の投与が始まる。といっても、注射でチクリと打つだけだ。注射が苦手なコバヤシ君は一瞬の痛みを我慢し、エンハンスメントを受けた。

「効き目が出るまで半日ほどかかるから、それまで楽しみにしておきなさい。それと、事前に説明したとおり、あくまで実験だから、全てが終了するまで関係者以外に作品を作って見せないこと。それではまた明日」

 GIJT剤の安全性は高いという結果が出ているものの、実験段階であることもあり、念のためにコバヤシ君は研究室に泊まった。

 次の日。

「陳腐な言葉ですが、目に、耳に入るもの全てが、かつてないほど輝いているんです。五感が隅々まで冴えわたっていて、これまで暮らしていた日常から別世界へと移転したかのようです」

 コバヤシ君は興奮しながら自らに起こった変化、GIJT剤の効果について語った。
 その報告を受け、ムラカミ博士は大層喜びながら、事細かにカルテにメモを取った。

「よしよし、刺激を受ける脳領域に十分効いているな。コバヤシ君、創作意欲があるなら今日から何か作ってみよう。ゆくゆくはアート界での最高傑作を作ってもらいたいんだが、どれくらいかかりそうかな?」
「はい、今日から早速創作していきます。期間については、ありとあらゆる技術や素材の可能性を試したいので、早くても三年はかかると思われます」
「そうか、そうか。ならば今日からこの研究室の倉庫をアトリエにしていいから、好きなだけ創作活動に励みなさい。必要な物品は全てこちらで買いそろえるからお金の心配はいらんよ」

 この日から、コバヤシ君の創作漬けの日々は始まった。そして、その日々は予想以上に早く終わりを告げた。

 GIJT剤の効き目はムラカミ博士たちを大きく裏切った。コバヤシ君の創作活動は異常なほどで、一か月後には、もうこれ以上の作品はないと報告してきたのだ。

「もう完成したのか! 素晴らしい! 早速見たいところだが、約束があってね。まずはウシロザワ社長に連絡しないと」

 ムラカミ博士はこれ以上ない笑顔を作って電話をかけようとしたとき、コバヤシ君が突然嘆いた。

「ムラカミ博士、限界に到達するってこんなにも虚しいことなんですね」
「何を言っているんだ、コバヤシ君」
「完成してしまったんですよ、作品が。これ以上ないほど最高な」
「全てが大成功じゃないか。これほど喜ばしいことはない」
「最高は目指すためにあって、完成してしまったらおしまいなんですよ。それってアートでも科学でも、何でも一緒じゃないですか。それがわかってしまったんです」
「ああ、制作活動は心身ともに負荷が大きかったのだね。完成した作品のお披露目会まで十分に休養を取りなさい」

 荷物を取り、ありがとうございました、と帰っていくコバヤシ君の後ろ姿は小さくしょぼくれていた。

 最高傑作の完成から一週間が経ち、ウシロザワ社長を招いて最高傑作のお披露目会がムラカミ博士の研究室で行なわれた。プロジェクトのメンバーも全員集まり、GIJT剤の成果の発表を待ち望んでいる。芸術家を目指している我が子の教育のためだ、ということで最高傑作を見せるためにウシロザワ社長は小学生の一人息子も連れてきた。
 最高傑作は絵画だろうか。真っ赤な厚手の布を被せた状態で壁に掛けられている。当然ながらコバヤシ君以外、その中身を知らない。

「さて、みんな集まっただろうか」

 ムラカミ博士は研究室全体を見渡し、みんなが揃ったことを確認した。

「コバヤシ君が完成させた、これまでに、そしてこれからも登場しないであろう芸術作品を心待ちにしているところだろう。その前に、まずはGIJT剤の科学的成果について報告したい」

 誰もが余計だ、早く最高傑作を見せろ、と心の中で思ったが、GIJT剤開発の一番の立役者であるムラカミ博士を無碍にすることはできない。みんな大人しく聞いていた。

「……以上がGIJT剤開発で得られた知見の概略だ」

 一時間ほどの報告が終わった。

「では、お待ちかねの作品のお披露目だ」

 ウシロザワ社長は逸る気持ちを抑えられない。

「待ちわびたぞ。早く見せてくれ」
「まあまあ、そんなに急かさないで下さいよ、ウシロザワ社長。では、コバヤシ君、前に出てきてくれ」

 コバヤシ君は不安とも悲しみとも、はたまた不機嫌とも受け取れる表情で前に出る。

「コバヤシ君、しっかり休めなかったのかな。それとも緊張しているのかい」
「いえ、そうではありません」
「まあいい。もう作品はできあがっているのだし、みんなの驚く姿を楽しもうじゃないか」
「ありがとうございます」

 ムラカミ博士は一呼吸置き、声を張り上げた。

「では、みなさん一緒に最高傑作を鑑賞しましょう」

 研究室中に高ぶる気持ちが充満する。

「コバヤシ君、布を取って見せてくれ」
「わかりました」

 コバヤシ君は布を手に取り、ゆっくりと引っ張り上げる。徐々に最高傑作が見えていくとともに、コバヤシ君を除いたみんなの鼓動は同調し、早くなる。

 布の覆いが全て剥がされた。

 そこには、腕いっぱいに広げたサイズのキャンバスの中央に、黒い点がぽつんとだけあった。

 いや、これは絵と括っていいのか。アートという広い文脈で解釈すべきだろう。

 五人のアートの専門家の困惑により会場はざわついた。

「むむむ、これは今までに見たことがないアートだ。素晴らしい!」

 一方でウシロザワ社長は感動のあまり、涙を流している。

「パトロンとなった甲斐があった。これほどの作品を生きている間に目にできるとは、私は幸せ者だ」

 ムラカミ博士は独り言のように叫ぶ。

「これぞ科学の力だ。反エンハンスメント主義なぞ、科学の前には無力である。科学はアートにすら完全をもたらすことが証明されたのだ。これにてアートの科学は完成した」

 みんなが興奮する中、コバヤシ君だけは相変わらず負の表情をしている。

 そのときだ。

 ウシロザワ社長の息子はおもむろにバッグからスケッチブックとペンを取りだし、みんなの前に自信たっぷりに立った。

「僕だって描けるよ」

 そう叫ぶと、スケッチブックを広げ、真ん中に、ぽつんと黒い点を付けた。

 一瞬にして研究室は、しんとする。

 コバヤシ君はため息を吐くように、つぶやいた。

「科学もアートも、完全を目指すから良いのさ。完全への到達は敗北でしかなく、面白みに欠けた陳腐なものだ」

 アートの能力増強を目指したGIJT剤の開発はこれ以上進展することなく、アートのエンハンスメントを受けたコバヤシ君の最高傑作は美術館に飾られることもなかった。
 その後のコバヤシ君の行方は誰も知らない。

ブログとはまた違ったテイストです。