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Twitterとの思い出を振り返っていたら思いがあふれてしまった

はじめてTwitterに登録したのは、たしか大学2年生のころだ。まだローンチして間もなかったTwitterには日本人ユーザーがほとんどいなくて、英語がおぼつかない私は「このSNS、どう楽しむんだ?」と首をかしげながら、「電車なう」とか「さみしい」とかふにゃふにゃで誰の得にもならない言葉をつぶやいていた。

そのすこし前にはmixiが流行っていたけれど、当時のmixiは完全招待制。入ってからは趣味の合う人や同族でコミュニティをつくる、いわば仲良し同士が“閉じる”ことを強みとするSNSだった。mixiならではの足跡機能は、自分に興味を持っている人を自動で可視化する力を持つ反面、常に誰かとのつながりを意識させるような設計だとも感じる。

そもそも紹介してくれる友だちもいなかったし、その“閉じる”文化に心底なじめなかった私は、SNSってツヨイ人のためのツールなんだな、と肩を落としていたのを覚えている。

一方Twitterは、がばっと“開く”SNSだった。誰もが登録できて、mixiのようなコミュニティも存在しない。ただそこにあるのは、雑多な“つぶやき”だけ。それは、人々の内面からこぼれてきた粒子みたいなものだ。誰かが目に留めるかもしれないし、誰の目にも触れないかもしれない。その曖昧さが、私はとても好きだった。

ところで、英語の「Tweet(さえずる)」を「つぶやく」って日本語にした人、天才だと思う。木の枝にとまった小鳥たちがさえずりあっている情景こそ「Tweet」にこめられたものだとは思うけれど、「つぶやく」のほうがより内面的で、本質的な気がする。Twitterという木にどれほど集まっても結局“ひとりごと”なんだということがすぐ理解できるから、Twitterの提供価値を的確に表していると個人的には思う。

私は「つぶやく」のが心から大好きだった。誰かと対話するのが苦手だから、誰にともなくつぶやいて、そこから誰かとゆるやかにつながれるTwitterは、私にとって救いの場でもあった。

何の目的もない、その瞬間の機嫌によって揺れる言葉の羅列。1日100ツイートしていたこともある。フォローされたらすぐフォローバックした。相手が誰であれ、何であれ。そうして生まれたタイムラインを覗くと、有象無象の心情が混ざり合い、濁った色の渦となって押し寄せてくる。誰もが寝静まる時間、タイムラインを眺めるのが好きだった。眠れずに孤独な夜を過ごす人が私だけじゃないんだと、くだらない下ネタをつぶやき続けている人などを見て安心した。

会社に入社して間もなく、上司から「SNSやってるだろ」と声をかけられた。自分のリアルな世界にSNSの話題が出てきて、驚いた。でも、確かに私は自分の顔をアイコンにしていたし、匿名性もさほど高くないアカウント名とプロフィールだったから、見かければすぐ私だとわかるだろう。ちなみにその上司は、下記のnoteに出てくる“クソ上司”だ。

上司が蛇のような鋭い目で言い放ったのは、「仕事に関わることは絶対に投稿するなよ」という警告だった。これもいま振り返れば、上司の心情は痛いほど理解できる。そこそこフォロワー数の多い新卒社員が入社してきて、案件によっては投稿映えしそうな華やかな舞台を支えることもある職種に就いたのだから、当然「守秘義務」の4文字が浮かんだはずだ。

私はこの警告を機に、まったくつぶやけなくなった。

理由は2つだ。1つは、そもそも忙しすぎて仕事以外の時間や思考がゼロになったこと。あの頃は終電が当たり前、泊まりもしばしば、朝は誰よりも早く出社してコーヒーを淹れないと怒鳴られる日々を送っていたから、仕事の内容に一切触れずにつぶやけることは「死にたい」しかなかった。

もう1つは、“上司の目”という現実的なものが、Twitterに介入してきたこと。私にとってTwitterは、現実とは異なる世界に根をはる大木だった。どんな鳥が羽をやすめても、どんなうるさい声で鳴いても、微動だにしない木だ。だから本音をつぶやいて安心できたんだ。

それから私は長い間アカウントを放置して、すこしずつフォロワーが減っていくことに悲しくなって、そのアカウントを削除した。未成熟な私の本音を大量に残していたログが、パッと消滅した。それはなんだか、部分的な自殺のような気がした。

再びTwitterを立ち上げたのは、それから数年後、フリーランスのライターになったときだ。人脈も経験もゼロで始めた自営業だから、おなじような境遇の人を求めていたのだと思う。検索窓に「ライター」と打ち込んで、適当にフォローした。

そのなかの一人が、オンライン飲み会を開催するとつぶやいているのを見て、思いきって参加してみた。暮らす場所も年齢もバックグラウンドも異なる人と、生まれて初めてオンライン上で“つながった”。あまりに緊張してワインボトルを1本あけたせいで、最後には泥酔して泣いたあげく、寝落ちして画面から消えたらしい。めちゃくちゃな出会いだったにも関わらず、その人は今でも私とつながってくれている。感謝しかないよ、ありがとう。

そうやって、私は二度目のTwitterでは同業者を軸に人脈の輪をすこしずつ拡げていった。同じSNSでも、私が享受したのは今までとまったく異なる価値だった。見渡してみると、全体のユーザー層もずいぶん変わった気がする。昔のような無意味な本音の連なりよりも、目的が明確で誰かの目を意識したツイートが多くなっていた。おもしろかったり学びが深かったりするものは、バズる。このバズるという現象も、私は二度目のTwitterからよく見るようになった気がする。やがてこのバズを狙ったツイートの割合が増えていって、フォローしてほしいという欲を全面に出したアカウントと接触する機会も多くなっていった。

誹謗中傷という4文字をよく見かけるようになったのも、おそらくタレントがTwitterに登録したり、インフルエンサーという概念が浸透したりしてからだと思う。これは私の主観によるものだから個人差があるということは前提にしてだが、黎明期のTwitterは良くも悪くも相手に対してもっと無関心であったように思う。どうせ誰の目も気にしていない他人の“ひとりごと”なんだから、文句を言うものですらない。「私は私、他人は他人」という暗黙知が守られていたような気がする。

Twitterはがばっと“開く”SNSだからこそ、ユーザーの使いみちによってツールそのものの価値が変容していく。まるでそのものが進化し続ける生きものみたいに。黎明期のTwitterのほうが好きだったというのは本音だけれど、私もまた、二度目の登録では目的意識があってTwitterに飛び込んだ。だから私も、その変容のわずかな一端を担っていたかもしれない。

Twitterという大木に集まる小鳥たちのさえずりは、いつの間にか無意識に統制されるようになった。誰かが怒りをぶつければそれと同じ声色で無関係な鳥が一斉に鳴きはじめ、美しい羽根の目立つ鳥がほろりと歌えばそちらの枝にワッと寄ってたかる。いつしかその大きな動きにおびえて、さえずるのをやめてしまった鳥たちも中にはいるようだ。

それでも、だ。どんなに鳥の様相が変わっても、変わらなかったものがある。Twitterという大木そのものだ。そのどしりと構えられた幹は、ときに「すこしはユーザーの意見も聞けよ」とツッコみたくなるほど憮然としていたけれど、やっぱり鳥たちはこの大木の枝に戻ってくる。その無関心さと変わらなさに対して、愛着がわいているからだ。私もまた、Twitterからもらったたくさんの価値を胸に抱き、なんやかんやと文句を言いつつ結局は舞い戻る一羽の小鳥だった。

2023年、たくさんの人に惜しまれながら象徴だった青い鳥が消えた。もう、私たちは「つぶやく」ことができない。べつにユーザーがやることは今までと変わらないだろう。でも、Twitterという名前、「つぶやく」という行為、目に慣れたアイコンがなくなることで、その行為をしたいという欲望はずいぶんと削られると思う。

冷静に考えれば、Twitter社に対して長年1円も落としていないのに、よくぞこれほどアイデンティティに深く刻み込まれるほどこのサービスを使いこんだな、と自分でも驚く。Xの襲来がなかったとて、いずれTwitterはビジネスとして破綻していたのだろうな、とも想像がつく。むしろイーロン氏は必要悪としてすべてのユーザーの恨みや怒りをわが身に集約して、それでもTwitterを守りたい、と誰も見ていないところでひそかに泣いているかもしれない。たとえそれでも許さん。許さんぞイーロン。

何が言いたいかって、長年ユーザー一人ひとりのナラティブに深く刻み込まれてきたサービスがアイデンティティごと放棄するのって、実はすごい影響を与えるんだよ、と言いたいのだ。「青い鳥の供養がてらTwitterにまつわる思い出をつらつら書いてみよう」と、何の構成も考えずキーボードを打って、3500文字いくんだから。そのくらい思い出があるんだよ、XではなくTwitterに。

だからといってアカウントを削除するとあまりにも、あまりにも失うものが大きすぎるのだ。一度目のアカウント削除を、私は「部分的な自殺」と感じた。今では、あのとき以上に大切な人たちとの出会いがあって、その人たちとゆるやかにつながっていたいという想いも強い。運営側への不審や不安が生じたら、自分のメンタルを健やかに保つためにサービスの利用をすぐやめてきた私だが、Twitterだけはそうはいかんのだよ……。

ここまできたらもうXがTwitterに戻ることはないだろう。一時は空が割れんばかりに鳴き喚いていた小鳥たちも、いまは別の話題に夢中だ。木の幹が黒くなろうと、青い鳥がいなくなろうと、関係ない人も多いだろう。

私はこれからどうしようと思いながら、どんよりした曇り空をふわふわと飛んでいる。ああ、膨大なインターネットの海に、またこれほど居心地の良い居場所を見つけられるだろうか。

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