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いったい誰がバカなのか?

バカを決める戦い

政治の問題は、「誰が賢くて、誰がバカか」を決めるための対立に見える。
コロナ対策についても、与党支持者と野党支持者は対立しており、お互いをバカだと言い合っている(ように見える)。選挙になると有権者は「どっちが賢くてどっちがバカか」を決めないと投票に行けない状況である。

ビニール袋有料化についても、反対している人は「有料化はバカのやることだ」という意味のことを言う。消費税についても、増税に反対していた人は「引き上げるのはバカのやることだ」という意味のことを言う。
とにかく自分たちの意見にあわない人は「バカ」なのである。
「バカ」は言い換えると不合理であり、「非バカ」は言い換えると合理である。

バカとなじられて分断

よく言われる「分断」とは、「バカ」と言われてなじられた人が、なじったほうの言うことに従わないからこそ生じるのだと思う。人には大なり小なりプライドがあって、よっぽど相手を信頼しているのでない限り、バカ扱いされたことを忘れない。

ぼくもうっかりしていると、ツイッターで特定の意見の人を批判してしまうことがある。間違っていると思うからこそ批判するのだが、翻訳するとその批判は「そんな意見を持っている人はバカだと思う」という意味になってしまう。気をつけないといけない。言い方の問題。

コミュニケーションの問題は、その人が「バカ」か「非バカ」かを決めることとは関係がないが、単純に、分断が生じる大きな要因になっていると思う。

バカかどうかを測る尺度

誰かが「バカ」だということはどうやってわかるのか。
算数や理科の問題は、正解があるのでわかりやすい。知っている人が賢く、知らないやつはバカだ。これはわりと明確に答えが出せる。

だがよく言われる「正解のない」問題を前にすると、誰がバカなのかわからなくなる。人文科学の問題にはそういうことが多く、誰がバカなのかわかりにくい。

たとえば「黒人差別をなくすためにどのような行動をすべきだと思いますか?」などの質問に出てくる様々な回答を見比べてみても、誰がバカで誰が賢いかを決めることは難しい。

自信を持って判断する人々

とはいえ、実際にはこういう問題についても、誰が「バカ」で誰が「非バカ」かを明確に判断する人はいる。そういう人は何か明確なモノサシを持っているようだ。しかしそんな自信満々の人が何人もいて、自信のありようで言うと同じレベルの人が、全く異なるモノサシを提示してくるから事態は厄介である。

人はそれぞれが持っているモノサシで誰かを測りながら、「賢い」と判断する人の意見を聞いている。子供でも、自分の持っているモノサシで判断して、誰の話を聞くか決めているように感じる。

モノサシは自分が成長していく過程で変化していくし、時代状況によっても変わっていく。
1970年時点で「賢い」と判断されていた人が、2020年になると「バカ」になっていたりする。そういう事態に直面すると、「このモノサシは間違っていました」と言われ、モノサシへの信頼度が下がる。2010年には2010年のモノサシ、2020年には2020年のモノサシが必要だというわけである。そうすると、2050年には2050年のモノサシのほうがよくなって、なぜあのとき2020年のモノサシで判断してしまったのかなあ人の想像力というものは貧弱なのだなあと悲嘆にくれることになる。つまり、1970年の合理的な判断が、2020年には不合理になり、2020年の合理的な判断が、2050年には不合理な判断になる。2020年には不合理な判断が、2050年に合理的な判断になることだってある。

という面倒な状況を日々痛感している。
いろいろ書こうとすると長くなって書き終わらないので今日はこのへんで。




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