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妥協の産物


妥協の産物-2020

SNSやニュースなどを見て世の中を捉えようとしていると、そっち行くの良くないと思うんだけどなあということばかり出てきて、困っている。なんにしても、ちょうど良い着地点に着陸しにくい世の中になってきている。

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ちょうど良い着地点は、妥協の産物である
何らかの理想を掲げていたが、そうそううまく行かないらしいので妥協して着地点を見出す。理想を追い求めたい人からすれば、妥協する輩を許すことはできない。でも時間が経つと理想と現実は衝突する。そのせいで、いまは理想を掲げて団結しているように見えるグループも、時間が経つと理想の追求の仕方を巡って分裂する。

掲げている理想が、個人の理想だったら妥協しても誰も怒らない。
ダイエットの目標を諦めても、怒るのは身近にいる人や、お金を払って雇ったパーソナルトレーナーくらいで、赤の他人が個人のダイエット計画の失敗を怒ることはない。
しかし社会に対する理想だと、怒る人が出てくる。
「社会はこうあるべきだ」という理想は、なかなか厄介な問題で、「こうあるべきだ」という理想に向かっていると、妥協する輩は理想の実現の邪魔をしているのと一緒に見えてくるらしい。

理想の追求の末路-1972

そんな理想を追い求めた人たちの末路がよくわかるのが、1972年のあさま山荘事件を起こした連合赤軍だ。彼らは、ぼくにはよくわからない理想を追い求めていたらしく、その理想の実現のために交番を襲って拳銃を盗んだり、銀行強盗をして活動資金を集めたり、ダイナマイトを盗んで爆破の練習をしたりしていた。
「権力」という抽象的なものを憎んでいたため、その手先である警察を襲うことを計画していたらしい。警察官は具体的な人間なのでわかりやすい。

このグループは理想を追求する過程で、その理想についてこないメンバーをリンチして殺している。いわゆるひとつの「山岳ベース事件」だ。
グループのリーダー格が掲げる「理想」と違うことを言ったメンバーは、「総括」と呼ばれる反省を促されるのだが、メンバーがどんなふうに反省をしても、リーダー格の人間から「それでは反省になってないなあ…」などと言われてしまう。そして、なぜか「殴ってわからせよう!」という結論に達して、殴っているうちに人は死んでしまう。

理想は追求しすぎると、ちょっとした違いも受け入れられなくなる。妥協を許さない。ぼくはこの手の社会的な問題については、積極的に妥協していきたいタイプである。歴史を学んできて、理想は簡単に実現できないというだけでなく、社会的な理想を追求しすぎるとヤバいかも、というケースはいくつも出てきているからだ。そのひとつが1937年からはじまるアジア・太平洋戦争だったりする。

「社会はこうあるべきだ」という理想

「社会はこうあるべきだ」という理想は、基本的に挫折する。
理想を実現に移す過程で、なんらかの具体的な行動が必要なのだが、具体的な行動は大きな理想に比べて些末だ。人間ひとりにできることは限られているし、世界の人間全員が同じ考えを持てるはずはなく、同じ行動ができるはずもないから、理想的な社会は実現できない。

そして、重要なのは、「社会はこうあるべきだ」と言われて「はいそうですね」と仮にみんなが賛同したとしても、「じゃあそれはどうしたらできるんだっけ?」という実行に関しては実験的で確証がない点である。
考えていても実行に移すと理想が実現できないことが明らかになる。実行に移すのは一人一人の行動に委ねられており、ひとりひとりの行動を逐一指導していくのは不可能で、もしそれをやろうとすれば「殺すぞ」と脅しながらやるしかない。そんな社会があったような気がしないでもないが。

社会への理想は個人の理想とバッティングする

社会的な理想はいつまで経っても実現されない。
なぜ実現されないのかを問い始め、理想のほうに調整が必要と思わない限り、行動のほうを調整しようという結論に達する。行動はどんどん過激化し、その過程で個人の自由はないがしろにされていく。

また、社会の理想はいろいろな人が掲げており、対立は必至である。そのとき、声のでかいほうが勝つということなると、やはり過激化していくことは避けられない。いま日本では過激化合戦がSNSを主戦場として行われている。

個として考える-2000

社会の理想に対し、個人の理想は妥協してもしなくても良い。だから妥協しないほうが理想には近づける。

2000年代は10年、15年くらいかけて、個人の理想を追求する時代でもあったと思う。「大企業も倒産するんだから、企業に期待していてはダメだ。終身雇用の時代は終わった。個人として生きよう」という認識のもと、個人でなんとか生き延びる術を人々が模索していく。その過程で登場したSNSでも個人アカウントを育てることで、個として生き延びる道を探る。
誰にも頼れないハードな社会に疲れ果てた先に、コミュニティ、居場所、サロンという新たなビジネスが現れる。

それはさておき、10年、15年近く、多くの人が「個としての生き方」を探る過程で、人々は社会問題を個の問題とごっちゃにして考えているような気がしてならない。しかし、社会問題は個人の問題と同じように考えていてはダメな気がする。
個人の問題は妥協してもしなくても、結果はすべて自分に跳ね返ってくるから自己責任で大丈夫。でも、1人でも他人が関わってくると個人だけの問題ではなくなる。社会問題は妥協が重要で、妥協しないと理想は先鋭化していって、誰かがリンチされて死ぬような事態にいずれ達する。死ななくても、社会的に抹殺されることはあり得る。

理想を掲げながら妥協する-2020

個人の問題と社会の問題をごっちゃにしてしまう考え方が蔓延した今、妥協点は見出しにくくなっている。理想を掲げるなというわけではなく、どんなものでも理想は掲げても良いが、現実と妥協点を見出してほしいというのがぼくの考えていることである。そのためには理想を語る言葉ばかり読んでいてはダメで、現実ってどんなもんかなあというほうの知識を増やすことが大事だと思う。それは現地にわざわざ行って得るものだし、違う立場の人の話を聞いたりしながら得るものでもある。コロナでオンラインの活動が増えると、その現実感は薄れていく。
現実を追認してニヒルに生きると気持ちが殺伐としてくるし、理想を掲げて理想に生きると怖くなる。どこで妥協するかはいつも気にしておきたいところ。

いろいろとややこしいのでなかなかまとまらないが、〆切もあるし今日はこの辺で。

補足

・連合赤軍については山本直樹の漫画『レッド』とその続編を読むと具体的にどんな感じだったのかが掴めてくると思います。

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