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神とか世界とかいのちの目的などの話

先日、私の投稿しているもうひとつのセラピストのnoteのほうに書いた内容について

時々考えさせられることがあり

お仕事を終えて帰路を急がなければならない時間ではあるのですが

今書かないとすぐに忘れてしまうので

そうだと感じたことをこちらに残しておこうと思います。

ー以下の内容

熱意をもって神を愛する人と
神を一切うけいれようとしない人

どちらの人も、みかたによってはさして
変わらないようにも思えてくる。

それどころか

損をしてまで神を信じたりすることは愚かなようにも感じられる。

また

神を信じながらも何も大したことをしないで
ただ生きているようなことと

神を信じていないなかでも
精いっぱい勤勉にいのちいっぱいに生きるのと

どちらに価値があるのか

それならば後者ではないか
という気も強くしてくる。

という内容のテーマについてー

神 という言葉はかろやかにも重々しくもとらえることができるし

サムシンググレート とか 天 とかいう表現のほうがしっくりくる人もいるかもしれない。

あえて宗教的な観点で神というものをとらえたときに

時代やジャンルを問わず、高等宗教、すなわち

本物の教えであればあるほど

(→ここではよりわかりやすく、神を人格神としてとらえた場合)

人の生きる目的は 神の似姿になること

であるといえるし、そこは共通していると思う。

また、人のいのちが電化製品などの万物とは全然ちがうもので

人のいのちには魂がふきこまれていて

永遠性があるというとらえかたによってはじめて

人のいのち

いきるいのちの目的が功徳を残すことだという教えは正当化される。

けれども

無神論者であったり 神とか仏とかにあまり関心をもたないまま

立派な生き方をされる人もたくさんいると思う。

そんな生き方に試練が訪れたり

何かのきっかけでより大きな存在に出会う場合もあるし

やっぱり気づかずに一生そのままの場合もあるかもしれない。

良心的に生きれたというだけでも大変なことだし

それが悪いとか残念とかはないのかもしれない。

楽しく幸せに生きること
いのちを謳歌、讃美できることは優先されるべきだとこころからそう思う。

ただ無神論のままに突っ走っていくときに

どこかでひずみとか自己中心とか意地悪な感情とかがよぎったり

自分というものが真ん中に居座ったりしてしまうことも

もしかするとわりとたくさんあるかもしれないと

やっぱり思う。


ーあれ?こころで描いていたときには

そうだな〜という結論がでていたのに
書いているうちにわからなくなってきてしまいました。

あともうひとつ

神さまのことでけんかになるような歴史は早く終息してほしい。

なぜそんなふうになってしまうのだろう。

宗教と政治の話題にはなぜいつも

こんなにも誹謗、中傷、野次がとびかうのだろう

スポーツや音楽のようにそれもいいね
自分は個人的にはそんなには好きじゃないけれどかっこいいねとかいうふうになぜ和解しあいながら話ができないのだろう

といつも残念かつ悲しく思う。

これからの未来、政治界に若い人々にも関心をもってもらうためには

誰かヒーローのような存在が必要な気がする。

だけどこれもまたスポーツ選手みたいにすがすがしくはなかなかいかないのかなと思うと

そんな勇気のある人々がまもられる世界を願ってやまない気持ちでいっぱいになる。

罪を憎んで人を憎まず

とは本当によく言い得た名言だと思う。

自分も気をつけようと思う。

すみません、また思い出したら編集しなおすか

もう一回くらい同じテーマで考えてみようと思います

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