見出し画像

「どこでも住めるとしたら」をやってみてよかったこと、わかったこと

このごろ「#どこでも住めるとしたら」のタグをよく見かけます。

 "住めるとしたら"ということは仮定であり、希望や夢を語るということなのでしょうか?「どこでも住めるとしたらどこに住みたいのかな?」と自分に問い、考えてみることはとっても素敵なことです。

人はまず、なんでも思い描くことからスタートするのですから。

アラ還のわたしはこれから未来を想像するよりは、描いた未来にほぼ到達した状況ですが、結婚後のわたしの人生は「住みたいところ」に住んでみた人生でした。より正確にいうと他界した夫と共に「どこでも住めるとしたら」を追い求めた人生といえます。

そんな体験からよかったことは、別環境で暮らした数だけ、想像を絶する別の人生を味わえたこと。そしてわかったことは、「どこでも住めるとしたら」を行動に移せば、視野が広がり選択肢が増え、精神も強くなっていくことでした。

名古屋で生まれ育って結婚し、夫は「理想の子育てのため」と称して田舎暮らしを希望したので、田舎の土地を探し回り、新築の戸建てを建てて引っ越しました。いちばん上の娘誕生とほぼ同時期でした。

その後3人の息子が加わり6人家族となり、田舎暮らしならではのカルチャーショックをおもしろがりながら、12年間、過疎の山村で自然や四季折々の風情を身近に感じて、田舎ならではの人情に触れながら日本独特のユニークなライフスタイルを味わう日々を送りました。

12年の田舎暮しのあと、家族で南太平洋のサモアに移住してみました。

あこがれの南国暮らしです。🌴

かつて、若かりしころの夫の友人にサモア人がいて、その彼と繋がったことから家族でサモアに旅をしました。「いつかこんなところに住んでみるのも悪くない」と思ってしまった2年後には移住を実行したので今振り返ればクレイジー極まりないことでした。

家族6人でのサモアへの旅はあまりに衝撃的でその一部始終は帰国後、本になりました。

ひとり者ならば、ふらっと移住を試みるのもそれほど難しいことではないと思います(もちろんそれでも勇気は要るでしょう……)が小学生から中学生の4人の子連れでしかも海外。資金があったわけでもないし、仕事のあてもなく「なんとかなるといいな……」で決行したのですから、無謀としかいいようがありません。

今から四半世紀前のことなので、最近流行りの「リモートワークだからできる移住」とはちがいました。

最初に旅で訪れたときに感じたサモアはまさに南国の楽園そのものでしたが、実際に住んでみた現実は毎日が驚きの連続で暮らしというより、毎日が冒険でした。破茶滅茶ながらも、そんな過去を乗り越えてきた今となっては、驚愕、悲惨な経験すらコメディです。

サモアで暮らした4年間の経験は、わたしの人生をよりユニークなものにしてくれました。何より、人が暮らすのにほんとうに必要なこと、モノを知ることができ、たいせつなことをたくさん学ぶ場となりました。

人が生きる上で、この地球上にはさまざまな環境があり、暮らしぶりもいろんなオプションが存在することを身を持って知ることができたのは、なにより大きな収穫です。今住んでいるところが合わなければ、移動することで道が開けるかもしれないことがわかったからです。

そして、2001年にサモアから米国に移住し、子どもたちは米国で教育を受け大人になり、今もわたしは米国にとどまっています。


サモアから引き上げるときに、日本に戻るか米国に行くかを夫婦で話し合いました。

日本の12年間の田舎暮らしも、サモアで4年の南の島暮らしもかけがえのない体験でしたが、田舎暮らしと島暮らしだけでなく、舞台をもっと大きく広げられたらと思いました。子どもたちが将来、どんな大人になってほしいかと考えたときに、米国で暮らす体験をして、英語で教育を受けておくほうが、将来より暮らせる場所の選択肢が拡がると思い米国に向かいました。

生まれた場所、町、国で与えられた一生を終えるのもひとつの生き方ですが、自分に合った場所をみつけて、住みたいところに住み、したいことをして、自分の人生を悔いなく生きることもまたひとつの生き方です。

世界にはいろんな場所、環境、そして出会いがあるものです。

どこに行こうと所詮、地球の上なのですから「どこにでも住めます」なんて自信があれば絶望することはありません。

今居る場所に居心地の悪さを感じれば、合う場所を探せばいい。
環境を変えられる柔軟性のある人は新たな希望をみつけやすいのです。

どう転んでも生きている間のこと!!
ほんとうに住みたいと思えばそれは叶うこと。
せっかく命のある時間、自分に合った地球のどこかに住んでみるといい!!

「#どこでも住めるとしたら」を想像することから別の未来が開けるかもしれません。


🌺 共感、応援いただけるならとびあがって喜びます。 そして、その喜びと感謝を胸に次のどなたかに恩送りします。