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振り返りがうまくいかない理由

私は朝のルーティンとして、「1年前の日記を読み返す」というのをやっている。

息子をなんとか学校に送り出し、妻も出勤して、家にひとりになったあと。朝の一番あわただしい時間、というか、一日の中で一番あわただしい時間を無事乗り切ったあとの、静かな時間。(フルリモート勤務なので自宅の仕事部屋の)机に向かって、紙の日記帳を本棚から取り出して、「去年の今日」のページを開く。

「1年前の自分」に再会することで、いろんなことが蘇る。


「1年前の日記を読み返す」と感じること

「うれしい」「良かった」「腹立つ」「つらい…」といった感情を表す言葉を目にして、「今の自分」が感じることは、大きく2つある。

1つ目は、「なんで、こんなふうに感じてたんだろう?」。

感情のもとになった出来事も一緒に書いてあるのだけど、怒ったりイライラしてた出来事をあらためて目にしても、「なんでこんなことで、こんなに怒ってるんだろう?」と感じることが多い。

そして2つ目が、「これ、なんのことだっけ?」だ。

日記と言っても、整った日本語ではなく走り書きみたいなことも多いので、当時の出来事についてのラフな記述を読み返して、「そもそもこれなんだっけ?」となることも多い。

「記憶はあいまい」には2種類あると思っている。

(先ほどと順序は逆になるが)1つ目が、「時間の経過」によるあいまいさ。過去の日記を読み返したときの「これ、なんのことだっけ?」だ。

そして2つ目が、「認知の変化」によるあいまいさ。「なんで、こんなふうに感じてたんだろう?」にあたる。

振り返りがうまくいかない2つの理由

これを仕事での「振り返り」に当てはめてみる。

「時間の経過」によるあいまいさは、まさに文字通り。「覚えてないから振り返れない」という隘路に陥る。

「認知の変化」は、「認知」の方に着目すると、「視点がずれてる」というふうに読み替えられないだろうか。

ビギナー、すなわち、何かを身に着けている途中にある人というのは、「本来着目すべきところ」に目と意識を向けられていない。ビギナーは「本来着目すべきところ」に着目できていないから、物事をうまく進めることができない。

視点がずれているので、「思い出すべきポイントを思い出していない」「『そこじゃない』ところを思い出してしまっている」となる。だから、振り返りがうまくいかない。

振り返りのインプットは、過去の経験だ。

そんなときにふと思いついたのが、「経験学習って実は、サイクルじゃなくて、インプット/プロセス/アウトプットで説明したほうがわかりやすいのかも」ということ。

経験学習における4つの要素をインプット/プロセス/アウトプットで表すとこうなる。
・インプット|具体的経験
・プロセス|内省的観察&抽象的概念化
・アウトプット|能動的実験

経験というインプットを、振り返り(内省と概念化)というプロセスを通じて、マイセオリーとしてアウトプットする。

だけど、過去の経験は、「想起する」(覚えている)こと、さらには、「正しく」想起する(着目すべきところに着目する)ことが必要だ。

振り返りの場に経験を「ちゃんと持ち込む」というのは、実はけっこう難しいことなんじゃないだろうか。

「なんとでも言えてしまう」振り返りになってませんか?

そんなことを考えていたら、以前こんなことを書いていた。(ここにも記憶のあいまいさが!)

「時間見積もりについて、新人と上司が一緒に振り返る場」に居合わせたことが何度かあります。

そこで話されるのは「自分はこれくらいの時間でできると思っていました」「なぜそう考えたの?」「○○と思っていたので」「じゃあなんで見積もりどおりに終わらなかったと思う?」「△△だからだと思います」といったものが多いです。

たしかに振り返りはしているのだけど、すべて「本人の頭の中」について振り返っているんですね。これのなにが問題かというと、事実との糸が切れてしまった振り返りになっているために、「なんとでも言えてしまう」というところです。

「なんとでも言えてしまう」振り返りというのは、本人に悪気がなかったとしても「その場しのぎの言い訳」に陥っていて、たしかに振り返りとしては機能していない。

じゃあどうすればいいの、となるわけだが、そのヒントも過去の自分が先ほどの引用に続いて書いていた。

振り返りは大事だけど、あくまで事実を起点にしていないと機能しません。振り返るときの材料を提供するという意味で、記録は確実な一歩です。

タイムマネジメントの第一歩は、「見積もる」のではなく「記録する」

振り返りがうまくいかない理由は、振り返りのインプットである過去の出来事(具体的経験)を、ちゃんと振り返りの場に持ち込めていないから。

だから、具体的経験をしているまさにその最中に、記録を取る。振り返りの場には、具体的経験についての、記憶ではなく記録を持ち込む。

「日記を書いている」ときにやっていること

あらためて考えてみれば、日記を書くという行為は、具体的経験をしている最中に、記録をしていることにあたるわけだ。

それを1年後に読み返すことは、振り返りの場に、「記録としての具体的経験」を持ち込むことになる。

もちろん私は、「さあ振り返りをしよう!」と意気込んで1年前の日記を読み返していたわけではない。「読み返すと面白いな」という単純な動機だ。

なぜ面白いと感じてたのかというと、記憶ではなく記録された、高解像度の具体的経験をインプットにすることで、芯を食った振り返りが(結果的に)できていたからなのだと思った。

日記を書いたときの自分と、それを読み返している自分は、もちろん同一人物でもあるし、一方で、違う感じ方をするという意味において、別人でもある。「1年前の日記を読み返す」という朝のルーティンを通して、「今日の自分」がリフレッシュされる心地よさを感じている。

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