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安全ピン

税金は払うが選挙権はない。外国暮らしを感じる場面はいくつもあるが、全国規模で行われる大統領選などにも、票を投じるという形では参加できない。でも、日本の国籍を捨ててまで、この国の市民権がほしいとも思っていない。


その私の、半径30メートルの話。


1月の米国の大統領就任式で、読み上げられた詩を聞いたとき、私は4年前の、同じ頃を思い出した。

就任式があったその日、そして、次の日もその後も、学校で、人種に関するあからさまな悪口や、移民への侮蔑の言葉を発する児童生徒が現れた。各地のニュースでも聞いたし、うちの子どもらの学校でもあった。

校長や、地域の教育委員会から、すぐ、保護者向けに、メールが届いた。人を分断するような言動は許されないと。寛容なコミュニティーでありたいと。そのために努力すると。

何があった、誰が死んだ、わけではない。でも、その空気は、私には濃かった。

人を侮蔑すること自体が、よくないことだ。その理由が、見た目であろうが、見てわかりにくいことでも。人種、ジェンダー、宗教、文化、出身国、障害の有無、、、。米国で、たしかにある、差別、区別、偏見。それでも、実際、そんなことを口にする人は、あまりいないと思っていた。しないのが普通だと思っていた。公の場で、少なくとも。

わたし自身は、この国で、面と向かって罵倒されたり、殴打されるなどの、いやな体験はない。唾は、目の前に吐かれたことはあるが、吐きかけられたことはない。だから、トラウマはなかった。

でも、侮蔑の言葉をはっきり言うとか、言ったあと開き直る事例を、毎日のように、誰彼からも、伝え聞いた。それはどれも、小さいことといえば小さいのだが、積もっていった。以前は、聞いたことがなかったようなことを。それも、短期間で。

店や役所に行き、私だけ、待たされる時間が長い気がしたり、急に係の人がいなくなったりした時、以前よりずっと、敏感に受けとるようになった。それまでは、たぶん腹をたてるか、声をあげていた場面で、私は黙って縮こまった。

わたし、または、わたしが属すグループを相手にしたくないと思っていた人たちが、自分の気持ちに正直に、もっと素直になっているのではないかと、想像した。

ほんとは、わたしは、ある人たちにとって、後回しどころか、出入りもしてほしくないような人間だったかもしれない。その人たちは、ほんとは舌打ちしたり、相手にしたくなかったかも。でも、それまでは、正しい言動を、と抑制があって、自分の気持ちを素直に出すことは、公では憚られていた。でも、正直な気持ちを出すことを勇気づけられた。自分も正直で何が悪い。

そう思っているのかもしれない、と。

正直な気持ちが知れてありがたいとも思った。同時に、自分の行動範囲も、私の言動も、せばまりそうな気がした。

妄想。そう言われればそうなのだろう。

その時の大統領が、正直な物言いをしていた。思うことを言い、信じることを言う。言論の自由だ。そして、それに励まされた人たち、悪意ある言い方で言えば、それに追随する人たちが、思うことを、正直に言い出す。したくないことは、しなくなる。たとえば、有色人種、それも、訛りのある英語を話す、とか、英語を話さない人たちに、あからさまに違う対応をする。

60年代になっても、まだこの国では、違うトイレを使え、とか、バスの座席で、近くに座るな、とか、公然と言えていた。それ以前には、国の大半で、それを道徳に反するとも思わず、とがめもしない時代があった。

わたしの、縮こまるような期間は、4ヶ月くらいだったか。もっと長かったのか。

ある日、どこかで買い物をして、お金を払うとき、私に普通に話す店員さんに、つい言ってしまった。

ありがとう。優しい対応をしてくれて。

そう言っただけなのに、店員さんの目が曇って、彼女は品物を渡す手を止めて言った。

心配しないで。国中で、あなたのような人には、いづらい雰囲気になってるけど、みんながそうじゃないから。

彼女は、自分の名札を指さした。

わたしのように思っている人や心配してる人も、たくさんいるから。これを探して。これをつけてる人は、あなたの味方だから。

名前の下に、安全ピンがついていた。

あなたみたいに感じてる人がたくさんいて、わたしみたいに感じてる人もたくさんいる。だから、セーフティー・ピンをつけようって、呼びかけがどこかで始まった。安全だから、このピンをつけてる人は。

ありがとう、くらいしか言えなかった。

そして、店を出てから、わたしは、かえって、猛烈に悲しく、また、腹立たしくなった。優しい言葉がうれしいのはうれしかったが、聞かなきゃよかったと思った。

じゃあ、安全ピンをつけてない、接客業務の人は、人種の偏見を持ってます、ということにならない?

そうじゃないのに、そう思ってしまいそうになる。安全ピンが、私を、さらに敏感にさせた。


今年の1月に、就任式を見ながら、あれは4年も前なんだなあと思った。

前大統領が、ずいぶん賞賛された、正直に生きること。それ自体は、いいことだし、肯定的な言葉だと思う。でも、正直に、お前は醜い、外国人のくせに、人の仕事をとるな、権利もないくせに、いやなら自国へ帰れ、変な顔、劣る人種、不快感を感じる種族、寄生虫、と言われるのは、わたしはいやだ。

米国の大統領選や、前そして現大統領についての、いろいろな報道を見聞きした。それについてや、彼らの人柄なり、功績なり、欺瞞なり、事実と言われるものに、違いはある。自分が見聞きしたことだけで、判断できないことがたくさんあることも、知ってはいるつもりだ。

どちらの大統領がいい悪い、はわたしには言えない。政策、実行力、信頼、国民の利益。わたしには、ある意味、米国大統領は、みな同じにも思える。自国第一というところで。

それでも、大統領が変わって、肌感覚で、わたしは、ほっとしている。自分のオフィスや、その建物に、KKKまがいの白人優先主義のビラが貼られたりすることが、たぶん確率として減るのだろうと思うと。そして、人種にひけめを感じることが、わたしにも誰にも、少なくなるのだろうと思うと。


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イラストは、今年1月の、大統領就任式で詩を読む、アマンダ・ゴーマンさん。そのイラストを描かれた川中紀行さんの記事は、こちら。


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