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3410文字、糾弾は何を対象にし、何を前提にするべきかという話、人間関係に対するいらぬ対立を生まない言及の仕方にも触れて

2024-4-002

場とそこで割り振り原理になってるものとがズレていた場合、場を尊重する立場
(場に置かれてるものが、場に即した反応を受けたのであればその反応にはいらぬ偏りや囚われがなく、
場に即してない反応を受けたのであればその反応にはいらぬ偏りや囚われがあるとし、

特に、局面と着目無視の合致をもって自我や文化の肥大化は抑えられるとする平等観や自由観、
あるいは、この意味でのいらぬ偏りや囚われを取り除くのを負わせる負わせない、負わされる負わされないといった表面上の有り様に先立たせるのと、
同内容の帰属修正の働きとしてある知性倫理美意識)は当然、割り振り原理を修正余地のあるものと見なすわけです。


場の個別性の取り違え最小化はこの立場からそのズレを潰しにいく処理ですし、
この立場からそのズレを糾弾するのも、修正余地に対する反応がたまたまそういう具体形を採っただけ
(ここでの具体化条件は、修正余地扱いするという主題にとっての場と言える)に過ぎません。


つまり、ドーピングによる金メダルや審判買収による優勝を茶番と捉え、勝敗という表層形だけを見て真に受けるのを拒否するのも、
個別性が根拠になる局面で個別性の取り違え最小化(同種の他との共通要素を捨象する処理なり、
AにもBにも言えるものをAに固有の性質としてしまうのを避ける態度なり)が選択肢にない枠組みと言える現状の文系パラダイムを糾弾するのも、


修正余地なさを受容条件にしてる人(内外事情の個別性の取り違えを最小化した実存を生きるという、自身の有限性形態に修正余地なさを持たせる事しか、
言い換えると、置かれてる場に通用させ続けるという存在課題、種レベルも個人レベルもあるそれの具体化条件をその実存とし、過程や帰結を受容に値するものとする事しか、
責任を負わせない平等、および、責任を負わない自由の採用者)の個々事情よりも、

してない人(修正余地のあるなしという内実が関係ないという意味で、表層形をもって肯定否定する表層次元を生きてる人)
の個々事情の方が反映されてる社会(において割り振り原理になってるもの)から受ける扱い(肉体の死も、思想の死もあり得る)を、

受容に値しない歴史(抽象化具体化の交互反復による同一性変化性の同時達成が、抽象化具体化の不十分さ解消という内実から成ってる場合を、
受容に値する展開、あるいは、不備のない論理性とした時の、具体化精度不足)として位置付ける(社会を市場に置き換えても同じ)のも、


場の尊重を原理として持つ修正余地に対する反応の具体事例という点で、構造的に同じものと見なして良いように思います。



ところで、頭の中で考えた内容を書き出してみたら整合不足と判明した、といった事例を踏まえると、
言語化(自然言語の場合、内外性質統合の一方を内在的問題解決スタイルである自我、肥大化回避や疑似化部分除去の意味での自由が局面と着目無視との合致によって可能となるこれとした時の、
外在的問題解決スタイルである文化の共有を条件とする他者性の取り込みでもある)に際し、

言語化前のものと比べて取りこぼしが生じる、といった事実をもって限定作用持つものを忌避すべく、限定作用の有無を論点にするよりも、
限定の前後を仮説と検証の関係として捉え、仮説改善が上限化されるような限定であるかどうかを論点にすべきに思われます。


また、後者の論点は、抽象化具体化の不十分さ解消を受容条件とする事で、好きに構築できる類の相対主義
(表層の汚れを拭っているいないによらず、修正余地なさが受容条件でない為に肥大化した実態として在る認識場や社会に即した構築込み)を排する側面と、

言葉の意味合いやニュアンスが使われ具合(使われなさ具合込み)によって変遷(例えば、死語化)する等の、
確からしさ向上を必ずしも伴わない変化そのものの肯定をもって、不変を前提にしてる絶対主義を排する側面とに分けられるとすると、


後者論点の採用は、変化不変化(例えば、政治経済でのそれ)への言及が、抽象化具体化の不十分さ解消という内実から成る変化性のみへの肯定から見た、
その変化性すら否定する過剰否定か、その変化性でない変化まで肯定する過剰肯定になってしまう、

内在不問外在軽視(典型自由観であり、前者論点の体現)な有り様の保障という外在場非尊重(価値、したがって、着目無視設定は場が決める件に関する、
認識場と社会の非対等性などを引き起こす抽象度不足の現れであり、井の中の蛙性の緩和に伴う論点更新に、

ひいては、思想更新に阻害が生じてる証拠でもある)を自己尊重や他者尊重の中身にしてる人の為す糾弾なり正当化なりに対する、
本筋に頼れない時の次善の策として肯定され得るのみな、真に受けるに値しない類の代物(あるべき有り様像についての主張)との位置づけが避けられないはずです。



例えば、ある教育機関の責任者が被教授者に向けて、生じるべきでないものとする立場から差別現象に言及したとして、
その教育機関が、内外事情の個別性の取り違えを最小化した実存と情報なり能力なり可能性なりの獲得喪失との整合を無視した獲得推奨

(できるという理由も、できないという理由もその実存である生の推奨とのバッティング)を展開していた場合、
あるいは、その言及の中で対差別の方策にその種の獲得推奨が含まれていた場合、

そこには、表層形を内実とは無関係に肯定否定する(表層次元を生きてる)生の現れAを否定しつつ、
同Bを肯定する不整合(表層形断罪の否定に関する確からしい原理の不在)が見出せますが、
この内容の対差別は過去に無数に発信され、当然書かれてもいるわけですから、


書かれたとて整合不足が見過ごされる事例(仮説が通用してるしてないについての精度が低いという意味で、仮説改善に繋がらない検証の形)であると共に、
文系事象の現象解釈に際する抽象度不足故に創出されたいらぬ対立を解消する機会を、他の人間関係に関して

(例えば、あるいじめにおける登場人物すべてに対し、先の実存からの乖離部分のみを修正余地として位置付け、
この修正余地を潰してる人だけから成る場の性質に即した割り振りを受容に値するものと見なす秩序観の獲得を、

加えて、局面と着目無視との合致への志向を内包するが故に上で見た茶番的獲得や肥大的自我を、
拒否してると言える先の実存へと導く必要性を認めた教育観の獲得を)逸してる形でもあります。


この原因は、文系的な文章(文系事象でも同じ)に対する理解力が、個別性の取り違え最小化の下での抽象化具体化に関する不十分さを、文系的な論理性の欠如とする内容でない既存の文系教育
(この意味での論理性欠如を抱えたまま、先の例で言うと、確からしい原理が不在なせいでご都合主義に付け込まれる隙を持つ主張に論理性を認めてしまう、

つまり、受容に値する状態にまで持っていってない都合の押し付け合いとなっているいないの差異を無視する形骸事態な論理感覚のまま、
学問世界や実社会に送り出された人達が、文系教育やその環境を担う再生産サイクル)ですが、


先に見たように、この保存されてる文系パラダイムに対する糾弾は、場の尊重の一具体例です。
(理想現実関係についての上の意味での不十分さに対する寛容、真善美と実存の関係を含む為、
例えば、存在性の演出的発現フィルターである表現者に関して、存在性を割り引く程度が最小となる先の実存から乖離してる程度を見ない、検討しない対表現も相当し、


同種の他との差異要素捨象を用いた抽象化具体化に関する不十分さが、理系における修正余地となったガリレオ以降の、
プラトンによる理想現実関係への言及を知ってる立場である哲学者に責任があるだろうこれは、

通用してる領域の広狭と確からしさとの相関踏まえた判断を有限者の身で展開してるに過ぎない自身を、落とし込んでる枠組みの低通用性が意味され、
特に、仮説の確からしさ上限化の論点化によって捨象されるものを持ち続けてしまう疑似問題体質の原因となる点で有害です。


代替不可能な内外事情にしか応じない実存でない人を尊敬するよう仕向けるのは、茶番的獲得や肥大的自我の受容に誘導してる形ですが、
上のような対表現の下での肯定的言説を権威がまき散らすのも同様の内容を持つわけで、
帰属に修正余地があるものをないものかのように受容する方向への誘導が野放しにされる点でも有害です。)

ご支援の程よろしくお願い致します。