見出し画像

3009字、ニーチェに対する肯定的態度も負う事になる、ある責任について

2023-9-007

実験精度の低い実験結果を仮説にフィードバックしてる形である(疑似性に囚われてる状態から脱せない)内在不問外在軽視な自由も、
ドーピングしてる選手としてない選手に扱い差をつけない形(90メートル走るのと100メートル走るのとが同等であるかのような事態)も含んでしまう常に内実不問な平等も、

具体化精度確保(外在場の疑似でない個別性との整合)の欠如から形骸化してるわけですから、
それらが未だに権威を持ってる状況(自由や平等が形骸性から解放されないままでいる事態)に対する責任は、

具体化精度確保の観点からの糾弾、対自由(個別性の捨象しな過ぎ)や対平等(個別性の捨象し過ぎ)に限らないそれを、矮小化する振る舞いをした
(具体化精度の低さを、その時点で可能な上限まで修正しなくても構わないかのような態度を見せた)全ての人にあるはずです。


形骸化してるそれらをベースとしつつ得る資格を開くと、資本主義や共産主義で見られる帰属操作が生じるのであれば、
その種の不当な帰属関係を強いられてる事態の責任にも同じ事が言えるはずです。

(認識処理自体が加工なわけですが、自分のついた嘘に自分が縛られたり、振り回される的事態に対する本筋は、
次善の策居座りのような過剰な連続性、オオカミ少年的確からしさ喪失を齎し得る過剰な分断性、この両方を、

理想を割り引く程度を最小にする類の現実尊重から成る現在を紡ぐ、つまりは、抽象化具体化の不十分さ解消を紡ぐ方針によって抑える事だとすると、
具体化精度確保の欠如から成るものは疎外現象や物象化現象を制御できない為、
この制御できなさが引き起こす事態の責任にも、同じ話が言える事になります。


実際、加工の類を局面に即した加工から見た過不足のなさを紡ぐ問題として捉え直すのも、
自由平等を局面と着目無視設定との合致保持による反応過不足除去をベースに組み直すのも、
具体化精度確保を先立たせてる体系の構築における個々具体と見なせます。)



個別性が根拠になる局面(文系的局面)では、同種の他との共通要素捨象用いた抽象化具体化の不十分さが解消されてる状態を、その時点での解決状態とする

(例えば、存在性の演出的発現における演出加工フィルターとしての表現者が、ここで言う解消状態に相当する下で言う実存であるかないかを、
つまりは、存在する以上引き受けざる得ない要素かどうかについての自身に対する分別の安易さ程度が、対存在性に、ひいては、存在性の具現に反映されてる構造を、
踏まえてない内容の肯定否定であっても権威付けが可能な文系空間の、表現への言及に対するぬるい現状は当然として、

ここで言う解消によって達成される内実確からしさ上限化を踏まえた、個別性への内実確からしさ不足の指摘が、
計算ミスへの不整合の指摘レベルで文系空間に生じないのも、この解決観の不在による)、

この理解をもって個人も社会も文系概念も捉え直しましょう(捉え直されてない理念が根拠の肯定否定に付き合うのを止めましょう)。



何ができて何ができないかという個々人の有限性形態も、代替不可能な内外事情にしか応じない実存(と整合させた獲得喪失)の反映である場合にだけ肯定
(もちろん、主体像や概念像に拡張可能で、反映でない場合は修正余地のある有り様扱い)し、

個々人の有限性形態がどのような扱いを受けるかは場次第としつつも、場の性質が代替不可能的であるほど、場との整合も肯定されると解しましょう。


社会がその実存だけから成ってる時(社会という場の性質の代替不可能性は上限化されていて、場との整合も協調形競争形といった表層形によらず肯定される)を理想としつつ、
理想現実関係を、抽象化具体化不十分さ解消状態に落とし込む事を、管理者立場は管理者立場なりに、プレーヤ-立場はプレーヤー立場なりに要求されてる(この観点からのみ他方を糾弾できる)と解しましょう。



ここでの理想は、場の疑似でない個別性に即してない体系の肯定も、即してる体系の否定(ニヒリズム込み)も、同時否定する具体化精度確保をもって捉え直されてると言えますし、

先の実存は、真善美や無限者との対峙がその実存をもって為される事で、対峙を抽象化具体化の不十分さ解消に落とし込んでる形、

つまり、場との整合という場全体に通用を行き渡らせる確からしさ獲得と引き換えの、合わせる分だけ場に置かれたものが負う限定性に伴う確からしさ低減を、
場の性質についての疑似でなさの追求という確からしさ獲得で補填する構造に、実存を場としつつ真善美や無限者を落とし込んでる形となる為、


場が価値を決めるという現実と真善美との間のバッティングを、確からしさ補填で解消する枠組みでもって、
真善美との間に生じる距離への短絡な肯定否定の意味での相対主義絶対主義を、論点ズレ扱い(文系学問が帰属修正の体系になってない形骸化の原因扱い)してる、

また、限定前後での通用量保存に対する志向の具現をもって、通用が行き渡ってるとの意味での無限性を拒絶してない証拠としてる
(下の議論と対象の性質から、関係性における修正余地は自身と上の実存との乖離部分と言えて、そこは対象を過剰に割り引いてる部分でもある為、
関係性改善としての信仰に非尊重を持ち込む形骸化のみを糾弾対象にしてる形でもある)、

こうした内容が言えて、ニーチェと比較する事で先の捉え直しに関する哲学的立ち位置が分かりやすくなるように思います。



(ちなみに、有限者故に真理との間に許してしまう距離の問題を、AさんとBさんの間の各々の把握限界故の距離に拡張すると、
AB間の距離自体への否定は絶対主義、少なくともどちらかが上の実存でないAB間の距離への肯定は相対主義、
どちらも上の実存である場合に生じてるAB間の距離は、距離への反応を両者共に修正余地のない事情をもって具体化してるので当然修正余地なし、という話になると思われ、

例えば、教育における社会性について帰属修正の体系を組み上げようとしても、絶対主義相対主義の同時否定が前提化されてないなら形骸化してしまい、
実際、前提でないせいで、上の実存の獲得支援が先立ってない教育実践なり、読み手書き手関係における修正余地に鈍感な読書体験なりの標準化という実害が生じてると考えます。


そもそも、Aさんがある対象位置づけaを表明した際に受け手が、Aさんの井の中の蛙程度最小状態と表明時の井の中の蛙程度とのズレを、心の理論課題よろしく、踏まえるところまで含めて対象理解とすべきで、
これを認めると、上の実存からの乖離部分に相当する、真善美に対するいらぬ割り引き発生部分の把握を対象理解に組み込む必要がある為、


既存の文系教育の理解観がそうなってないのは、理想を割り引くものとしての現実というプラトンの指摘に対する、理想を割り引く程度を最小する類の現実尊重という枠組みでの応答を、

理系はガリレオ以降、同種の他との差異要素捨象を用いた抽象化具体化の精度最大化の下での交互反復の形で、事実上採用してるのに、

上で言う解決観の不在が続く限り、棄却してしまうからと言えて、

認識面と道徳面について、上の応答の観点では理想切り捨てと現実切り捨てと言えるカントやどちらも理想切り捨てと言えるニーチェの権威が、
具体化精度確保の観点から言える修正余地の分の割り引きを未だ受けずにいるのも、その棄却の一種と見なせます。)

ご支援の程よろしくお願い致します。