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3147文字、平和や共通といった表層形の名の下に泣き寝入りを強いる等、表層形と受容条件とを安易に結び付ける知性倫理美意識に対抗する力について

2024-2-003

場の個別性が持ってる偏りはそのまま着目無視の有り様となり、これと実際に割り振り原理になってるものとのズレの許容は、ドーピングによる金メダル的な茶番の原因です。
ある他者の認識場の個別性が疑似化してた(存在するのと引き換えとは言えない要素まで個別性に帰属させてた)なら、

例えば、その人の覚えた感情は茶番選抜の結果と言えて(感覚にも同じ話が言えますから、
選抜精度の上限化を先立たせてない段階での、自分の知性倫理美意識は十分機能してるとの感覚は茶番選抜の結果です)、

その感情を根拠とする振る舞いは、修正余地のなさという受容に値する為の条件を満たしてないものの受容を外界に強要したのと同じです。
環境の影響を受ける以上、環境の歪みに責任ある者への修正要求は泣き寝入りの拒否であり、対人には常にこの側面があるのであって、


自己に代替不可能な内外事情にしか応じない実存方針を課す事で、求めるという主題の具体化条件に修正余地のなさを持たせつつ、他者にその実存方針を求めるのは、
条件次第(望ましくない有り様に対する否定が精神的に距離を取るだけに留まり、表面上は求めてない、という具体化結果もあり得るので)では、

茶番選抜の原因である上のズレを潰してもらう働きかけとなり、自己の反応も含めて、負わされるに値しないものの受容強要の縮減に繋がります。
(その実存方針を自他に求めるだけの事ですが、受容に値しないものを負わされるもののいない世界に近づく点から見てそれは、
平和や共通といった表層形の名の下に泣き寝入りを強いる等、表層形が問われてる局面でなくとも、表層形と受容条件とを結び付ける知性倫理美意識に対抗する力を持ってると言えます。)



同様に、知的空間(倫理的や美的でも同じ)が負わされるに値しないものを負わせてくる状態にあるなら、
生遂行へのいらぬ劣勢を強いられてる以上、空間有り様に影響力を持つ者に対して、
茶番選抜が許容されてる事態の責任を帰属させつつ、空間有り様の修正を要求するという主題を持つのは、泣き寝入りを拒否してるだけの話と見なせます。

代替不可能な内外性質から成る現象(文系事象については、代替不可能な内外事情にしか応じない主体像をはじめ、
同種の他との共通要素捨象を用いた抽象化具体化が不十分でない時の抽象物と具体化条件の総合体)であれば、

確からしさの上限(限定を受ける前状態の準備と負わざるを得ない限定条件の割り出し、この両者の上限から成る理想現実関係)と見なして肯定し、
そうでないなら修正余地保有状態扱いする内容となってない主張がまかり通る事実

(場に合わさない絶対主義、内在不問外在軽視な典型自由観も連なるそれが、
検証から逃げ続ける仮説並みの確からしさしか持ち得ないとの位置づけを受ける事なく正当化可能であるなど)をもって、

知的空間がそのような状態にあると解し、文系空間の場合は、文系権威にAにもBにも言えるものをAに固有の性質とはしない能力への立脚
(代替不可能な内外事情にしか応じない実存の反映である観点は肯定し、そうでない観点は修正余地保有状態として扱うのを可能にするだけの、
観点の内実検討にとって前提となるそれ)を求める、という主題を持ちましょう。



ところで、場の表層に合わせてる状態に対しては、場の本質に合わせてる状態へと修正する移行をもって解決とする立場から見ると、
場に合わせる合わさないの二択地平は、外在場と内在場の間の上下論に留まり、
内在場や外在場での表層から本質への移行の意味での疑似帰属部分の除去を埋没させてる疑似解決が不可避です。

(個別性が根拠になる局面で先の能力に立脚する立場から見た、共通性立脚や先の能力を要請しない個別性立脚にもこの構造は言えて、
目先きの優勢劣勢を踏まえ、共通性に都合の良さを見るやカントの弊害を無視してカントのノリを持ち出し、
個別性に都合の良さを見るやデカルトの弊害を無視してデカルトのノリを持ち出す両極保有についても話は同じですし、

カントやデカルトの弊害を問題状態に加えてない抽象度不足が、近代以降の文系空間の歪みの原因であると解せば、その立場は近代性を乗り越えてると言える為の条件に他なりません。


実際、茶番選抜の保存がカント的かデカルト的かによらず、ドーピング選手の勝ったレースのタイム測定が精密です的な、
茶番選抜の下での表層洗練が内容の理解力像に、地平を押し込めてきた既存の文系教育や文系学問と決別できてるなら、

言わば、理系者が、数を数えられるとすれば林檎も蜜柑もまだ見ぬものも数えられるのに、計算ミスの混じってる理系的文章を読んで計算ミスに気付かず理解したつもりになってる的事態を、
文系者が文系的な文章や思考において引き起こすのを防げてるはずで、下の具体化条件を剥ぐ話から分かるように、
個別性が具体化条件である場合に抽象度を上限化できてるのなら、先の能力が機能してるはずです。)


もちろん、この疑似解決が確認されたとしても教育の効果により、理系事象に関しては、
原理とその具体化条件の関係を押さえる事も、対象に関して持ってる抽象具体関係構造の像における具体形パターンの量や質と理解具合や実力具合とを結び付ける事も、可能なのでしょうが、


文系事象に関しては確認された段階で、主体の振る舞いであれ、文系概念の用いられ様であれ、
内在性質と外在性質の統合として現象を捉える(ある主体がAに価値を見出してる時、

主体をこの統合として見るのと、置かれてる社会から主体が受ける扱いをこの統合として見る2種類がある)ところからして、
つまり、先の能力(これを機能させられないなら、個別性が具体化条件である時は文系権威であろうとも、

具体化条件を剥ぐ作業に関し取り違えからくる難がある為に、抽象度を上限まで持っていけない)を用いて内在性質と外在性質における疑似帰属を検討する
(疑似帰属がないほど修正余地がなく受容に値する、との意味で内実が確からしい)前段からして既に疑わしく、理解や実力を上限化できない証拠となるわけです。


したがって、文系概念の有り様に対する帰属修正を上限化できてやっと哲学的試みは、
いらぬ疑似問題を抱えたままの展開を防げると解せば、内在不問外在軽視な内容である典型自由観含め、絶対主義的傾向は、

もっと言うと、代替不可能な内外事情にしか応じない実存方針の下で手に入るものに獲得を限ってない
(観点に関してこれが許される状況を強化したデカルトのこの弊害に対し批判的でない)時点で、哲学に向いてない証拠となりますし、
例えば、人それぞれであるといった相対主義的態度を採っているにせよ、そこに場に合わさない個人への許容が含まれてるのなら、話は同じです。


(ちなみに、現象を内外性質統合と見なすのと加工の不可避性を認めるのとは同義ですし、
解決状態を代替不可能な内外性質の統合状態と見なすのと、限定を受ける前状態の準備と負わざるを得ない限定条件の割り出し、
この両者の上限化を加工原理として、則る場合よりも則らない方が利得や回避できる損失が大きかろうと則るのとは同義です。


能力や情報や可能性の獲得有り様と被教育者の修正余地ない個別性との整合具合に関係なく、優秀さ認定やできなさ擁護が為される教育環境も、
演出における強調できるとか誤魔化せるといった側面の価値が肥大化し、内実でなく表層洗練具合が論点になってるメディア環境も、

その加工原理の軽視と表裏である、特化の過不足への鈍感さの弊害と言えて、この弊害の責任は哲学者の、
プラトン時点で理想と現実の関係をどうするかが問題になってるのに、その加工原理が、少なくとも文系域では未だ答えと見なされてない点にまで遡ると思われます。)

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