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1876文字、既存の哲学者は哲学を尊重できてないのでないか(哲学はどう再構築されるべきか)という話

2023-8-007

代替不可能な内外事情にしか応じない実存は、局面と着目無視との合致の意味でのフェアへの志向を包含してるので、
受けた糾弾に対する矮小化(取り合うに値しないとの位置づけ)をはじめ、ご都合主義ではないという事実が先立ってないと正当化されない類の認定の、判断者条件も満たしてると考えます。


ところで、受けた糾弾を妥当不当によらず矮小化してやり過ごすのは、仮説検証を操作して都合の良い結論を導くのと大差ないわけで、

自身の個別性(例えば、感情の傾向)について、それは仮説に過ぎず、井の中の蛙的状態の緩和程度(勘違いの緩和程度)に差異があるだけと見なしつつ、
自身の個別性から疑似化部分を剥ぎ取っていく作業を、仮説の改善として見た上での、

ご都合主義性(何らかへのフェアを越えた尊重)を低減させる実存(冒頭の実存)の採用が、
生に伴う経験(情報獲得)を自身の個別性の改善に繋げる(自身の生が精度保った検証を経てない仮説のごり押しと引き換えになるのを防ぐ)為に必要でしょう。



また、プラトン時点で理想現実関係(割り引かれ前後関係)が提示されてる点と、
ガリレオ(数学によって自然を説明する、この方向での言わば、プラトンとアリストテレスの架橋による、上下論含む理想現実関係の捉え直し)以降の理系では、
同種の他との差異要素捨象を用いた抽象化具体化に関する不十分さ解消(不十分なものへの疑似化物扱い込み)が理系全般で展開されてる点から、


対文系事象(個別性が根拠になる局面)での知性倫理美意識の働き(修正余地のない帰属関係の達成)における、
同種の他との共通要素捨象を用いた抽象化具体化に関する不十分さ解消と整合してない部分が、疑似問題義扱い、疑似解決扱いされてない件
(真善美なり無限者なりとの間に生じてしまってる距離に対し、冒頭の実存の下で、あるいは、冒頭の実存を生きる者だけから成る社会の下で、生じてる距離かどうか、

つまり、実存に対するこの解消の結果を、対真善美や対無限者における具体化条件にしてるかどうかと、
関係なく否定する絶対主義も、関係なく肯定する相対主義もこの件の弊害)について、
少なくとも、ガリレオ以降に哲学者の肩書掲げた者には責任があると言えるように思います。


(認識であれ存在であれ何かが場に置かれてるわけで、現象を内外境界発生意味する有限性の、与件下での内在性質と外在性質の統合、
文理の差異を、同種の他との共通要素を捨象する場か、差異要素を捨象する場かの違い、

論理や歴史を、通用の行き渡ってる状態保存しつつの表層形変転のつもりな展開、
被限定の除去状態の準備、引き受けざる得ない限定条件の割り出し、これらの上限化を、被限定による通用領域縮減を限定理由の高通用性で補填した、通用の行き渡ってる状態、
したがって、不十分さ解消の下での抽象化具体化交互反復、もちろんこれでありさえすれば解決状態なので帰結によらないこの種の反復を、形骸でない論理や歴史として捉えれば、


文系論理を機能させる事と、自他の有限性形態の変遷について冒頭の実存との整合具合しか問題にしない平等性とは、同じ構造の話になるので、
冒頭の実存と整合してる獲得喪失なり負わせる負わされるなりを解決状態として扱わないなど、冒頭の実存を生きてないのに、主観立脚な判断の結果を外界に負わせる事に疑問を持たない、

この事態は、林檎を数えられないのに、つまり、この時点で原理不在が言えるのに、蜜柑を数える事ができてるつもり的内実が意味され、
原理次元である上の件を解決する必要性が、より明白となるように思われます。)



彼らが糾弾を免れるのは冒頭の実存をもってこの件に関わってる場合(何ができて何ができないか等の有限性形態に修正余地がない場合)だけとする内容の彼らへの糾弾を、
彼らが矮小化してやり過ごす(上の件を踏まえた哲学の再構築を拒否する)ならば、


哲学からその個別性の改善機会を奪ったあげく(修正余地がない状態のものを受容しないのは、対象そのものを尊重するつもりがないからだとすると、この時点で哲学への形骸尊重が言える気がします)、
取り除ける類の疑似化部分を有したままな哲学のごり押しの結果である歪み発生
(帰属操作の正当化など)の責任について、哲学に擦り付けてる非尊重に他ならない事態

(言わば、何らかの理念を、歪んでいるいないに関する確からしい分別原理を付さないまま、神の名の下に推奨し、
その結果に生じたいらぬ不幸、つまりは、負わされるに値しないものの発生の責任を、神に擦り付けてるパターン)が意味されると疑います。

ご支援の程よろしくお願い致します。