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コメント投稿用に本文(003)から摘んでまとめた文章を本文より先に

2020-9-003'
日本の形骸化を憂う声に関するスレへの投稿内容:


盲従に値しないだけの限界を現実をもって示されてすら、理論自体に瑕疵は無い、悪用されただけ(される隙を埋めるわけでもない、むしろ理想状態への一足飛び図って広げてる)的反応が思想系であるけど、
単に流されるのでも、背伸びしたり目先に走って(無駄に死角を作る的に)過剰に特化するのでもない変遷や展開を望ましいとするなら、
まず、意外な行動見てAさんに対する理解改めた、使われる使われないの実態を反映して言葉の意味合いやニュアンスがずれてく、そうした具体抽象間の行き来は常に起きてるとした上で、
抽象化や具体化の精度だけを問題にする視点(現行の世界標準知性は捨象対象が偏向気味)、抽象化と具体化条件割り出しの精度が最大化されてる変遷や展開に限ってOKとする態度が必要と思います。
個人にしろ国にしろ、資質(抽象物)と環境(具体化条件)の関係をその枠組みに落とし込んでる場合にアイデンティティなり身体性なりもより根拠に値すると見るわけです。

加えて、主権や財産権の使われ方はじめ、近代型権利観により現行世界はいろいろ規定されてるわけなので、
倫理や知性の既存枠組みは、世界標準である間の世界の有り様に対しある程度責任ある以上、
その間発生したいらぬ不幸を原理修正の契機としない(不幸を犬死で終わらせる)事実上の盲従的有り様は、先の思想系の例に重なると見た上で、
対常識や対パラダイムで言うと、特定時空の事情に単に染まるのでなく(一旦、特定時空性剥ぐ抽象化を挟む)とか、
英語脳という表現あるけど、インストールした状態としてない状態でのできる事できない事の違い踏まえてなお、どちらの状態選ぶかは己の資質や環境に対し代替不可能部分だけ引き受けてる結果の注力傾向次第とするとか、
倫理や知性を特化させ得る個々の枠組みとの付き合い方が、上の視点や態度から成る枠組みに落とし込まれてるかを気にする敏感さも必要でしょう。

ご支援の程よろしくお願い致します。