無題0

常識やパラダイムから受けるいらぬ限定を排せるはずの哲学からして、欧米知性特有の枠組み(理系的捨象に特化など)によるいらぬ制約下にあるので、アップデートしましょう

2019-5-002 言葉の奴隷状態からの、哲学による開放(対通念や対概念枠)に関するスレにて


例えば、虹の色数のイメージ(七色なり五色なり)への、文化の影響も、

文化による加工と見なせる要素を除く処理、
引き受けざるを得ない文化アイデンティティ(代替不可能な固有性)を見出し、それによる加工に限る処理、

どちらも最大限なら、
囚われてない(有限存在での上限)との扱いを、
そうでないなら、囚われてるとの扱いを為すべきと考えます。

例えば、流行などの、多数派に属するしない(する場合、しない場合の形)も、

環境による加工の前後と見れば、同じ議論が可能です。
(もちろん、人類や個人の資質を加工条件、つまり、置かれる場の性質と見る議論もできます。)


ここで、
パラダイムや常識についても
(概念枠や通念等、言葉のそうした側面についても)同様と認める。
かつ、

絶対主義と相対主義の同時克服にそれら処理を用いる事をしない、
また、
美味しい林檎も不味い林檎も林檎は林檎だ的捨象と、
対象にとっての引き受けざるを得ない、それがそれである限り代替が利かない性質を見出す的捨象とを、
局面に合わせて的確に使い分けてるとは言えない(前者特化型)、

そうした傾向が、世界標準であるにもかかわらず、欧米知性にはある、
と認めるなら、

囚われてない状態は、
欧米の枠内にいる限り、理系的局面以外では無理であるし、
既存哲学との距離も焦点ではない、

となるはずです。


思考力や理解力も、
能力獲得(内在場発、外在場発)も、
いらぬ特化を避ける処理が不全であるなら、量的な話に留まる、

この意味で既存哲学も現行教育も量的です。

その処理を、
先のように、抽象化と具体化条件割り出しの最大限追究として見るにせよ、
その場その場の代替不可能な固有性と次元設定(着目無視)との合致配慮として見るにせよ、

場に置かれるものと置かれる場の関係(外部有りを導く有限性)を前提にした、

場の性質が具体化条件、
場の代替不可能な性質は確からしい(通用が行き渡っている)具体化条件、

これら観点は変わりません。


それら観点を、
プラトンの指摘(理想と現実の分離)への回答としてない事が、

近代以降の混乱(実情主義の進行や反動)の原因でもあり、

欧米知性の枠組みによるいらぬ制約下(機能不全)に、既存哲学がある原因でもある。

この理解をもって哲学を捉え直し更新するのでない、哲学への接近は、
その混乱の再生産に繋がるので、

哲学への接近を試みたり、推奨する(哲学の不毛を嘆く)前に、
先の量的な話に留まってしまう現状の打破を果たしましょう。

ご支援の程よろしくお願い致します。