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3003文字、資本主義と共産主義への対策を、受容条件の観点から

2023-6-004

資本主義と共産主義への対策は、倫理(獲得喪失現象に対する態度など)についての、受容に値しない状態に対する志向が先立ってない類から先立ってる類への移行の話、
あるいは、この移行支持としての倫理にまで遡る必要があるのでないかと疑います。


実際、資本主義の問題点は、市場の実態主義性(需給事情を構成する個々事情の内実確からしさ不問)を修正しないまま、需給成立に数理的洗練を導入して、受容に値しない個々事情やその影響を肥大化させる点なので、
代替不可能な内外事情にしか応じない実存やその割合のより高い集団を、余裕がある時の消費対象や投資対象として優先してくれれば、

もっと言うと、余裕のない時は成立自体を重視し、余裕のある時は成立の内実確からしさ(抽象化具体化の不十分さという修正余地の解消)を重視する、量と質の間の局面に即した推移構造の内面化も、
文理に相当する局面差異への尊重も、その実存には包含されてる為、社会におけるその実存の割合を高めれば、

済む話だろうに、対グローバリズム含め、個別性を無闇に捨象する不当合理への批判にかこつけて、個別性の内実修正余地無検討な保障を押し通す論点埋没系主張が、
権威を持ててしまう状況(個別性が根拠になる局面での個別性捨象と個別性内実無検討という、
対文系でのどちらも疑似解決な二択縛りが近代性によって強化されてる地平のデフォルト状況)にあるわけです。


(個別性の疑似化部分除去に必要な能力である同種の他との共通要素の捨象も、
文理に相当する局面差異への尊重、したがって、対象を主観場に置くか客観場に置くかといった、個別性が根拠になるならないについての判断力も、養成しないせいで、

権威者含め、不当合理と実態主義の二択地平の外に出られないという対文系の機能不全を強めて社会に送り出してるも同然な既存教育は、
上の割合増加の阻害要因であり、資本主義含め、欧米文系の産物に含まれる疑似問題性や疑似解決性が保存され、まき散らされさえする原因になってるので、


肯定も否定も保留も通用領域の広狭と確からしさとの相関を踏まえた対象位置づけ選抜であり、
どの観点でその相関を持ち出すのかについての通用性の低さは、ドーピングによる金メダル的な茶番まであるわけで、そのままその選抜の低確からしさを意味する点、

否定反応の自身の内外条件に即した具体化など、個別性が根拠になる局面で疑似化してる個別性に通用領域の狭さを見出す観点を事実上持てない、
したがって、文系的局面では帰属関係に修正余地がある状態をない状態に持ってく働きという内容に、知性や倫理や美意識がならない欧米文系の産物に対しては現状、
その観点傾向に由来する疑似問題や疑似解決の含有物として扱うべきである点、

これらを既存の教育とは関係なく認めましょう。)



他方、共産主義系の国は、得る資格のハードル下げる方針が秩序を担うと、個人の精神や国家の権威や科学の在り方を縛らざる得なくなり、
縛られた状態と現実との齟齬の拡大をもって縛られてるものの分離という次善の策に至る、
この中世ヨーロッパの経験を近代版(その次善の策が余裕生じて以降も居座ってる様態)で繰り返す事になるわけで、

得る資格のハードルを下げる方向(その先にある与える世界像)から、受容条件のハードルを極力上げる方向(その先にある奪われがない世界像)への上書きが、その根本的な対策になるはずです。


なので、有限(内外境界発生)の与件性を認めた上での有限性の代替不可能化(与件性が装われてる事態の解消)を意味する、
代替不可能化された内在性質外在性質から成る現象を、帰属関係に修正余地がない(帰属の操作という奪ってる形とは無縁)、
したがって、その現象である事を受容条件にしてる時、受容条件のハードルは最も高い(受容に過不足がない)、

そう解して、先の実存(この枠組みに感情理性関係も、無意識意識関係も落とし込んでる生)が、
自己の生に対し最も安易でない、かつ、いらぬ有限性からの解放を齎してる態度

(例えば、理想と現実の間にある関係に対する、上の現象と言える状態に持ってく、あるいは、その状態を紡いでく以外の反応、
特に、先の実存を生きてきた結果である有限性形態やそうした個々人のできるできないの集積でやっと不可避な現実と言えるのに、
そう言えないものまで言えるかのように扱う内外境界線をもって、自身に帰属するものも外部に擦り付ける、これを対象尊重にかこつけて為してるケースすらあるなどは、

たとえ世界の残酷さに対するものであろうと、たとえ本人が誠実なつもりでいようと帰属操作の類であって、
より確からしいものを選ぶ処理が抽象化具体化の不十分さ解消をその内容にしてない領域がある結果の疑似問題疑似解決)であり、


真善美そのものを内在性質として見た時の外在性質(つまり、真善美そのものが置かれる場)に先の実存(を抽象化具体化交互反復に拡張した結果である有限性形態)を充ててる状態を、
受容に値する対真善美と見なしてる時が、真善美に対し最も安易でない態度である

(対無限者も同様で、宗教系にせよ直観系にせよ、合理的な説明を欠く事自体に問題があるのではなく、
合理的説明に依拠しない場合、内実に修正余地のある個別性の産物であるのか、それとも、個別性が根拠にはならない局面に越境しないと期待できる点込みで先の実存の産物であるのかが、
取られる距離の根拠として問題になる対実態主義の話であるだけ)と位置づけましょう。



内在性質外在性質の代替不可能化は、内在場外在場の個別性に対する疑似化部分除去
(価値は場が持つ偏りに他ならないのにその絶対化などで、ある場における価値体系を他の場に持ち込む越境は、場の尊重に関する原理の不在を意味する為、
形骸な自己尊重しか持てない、したがって、対管理においては論点ズレであると言える外在軽視系自由観、内か外か上下論、場に合わせる合わさないの二択縛り地平、これらの廃棄)を包含してますから、


この場合の平等は、場の疑似でない個別性に即させる整合(管理者立場もプレーヤー立場も他方に要求できるのは、相手側の立場からのこの達成協力のみ)という秩序像の言い換えである、
当然、局面と着目無視の合致に伴う捨象の意味でのフェアを、越えて自他を助けない救済像も、越えて許容や忌避をしない対非対等性も包含してる、

場の疑似でない個別性の下の平等という平等像(場の性質の疑似化部分除去を論点とする倫理が不在である為に、
内在場や外在場の上に立ち上がってるものに対する、内実に修正余地がないなら表層形は何でも良いとする態度でなく、表層形のみで肯定否定を判断する態度が、
その不在を埋めてる状況もあると考えると、表層形断罪は防がれてる)となり、


得る資格のハードル下げる平等像(実態主義対策を別途付さない市場重視や民主制、
あるいは、この事態をそもそも可能にしてる、主体に関する内実の修正余地有無問題を埋没させてる権利観、場との整合現象以上の意味合いを付してる責任観など、場の尊重に関する原理を実質欠いた政治思想、

より広くは、具体形パターン網羅という高通用性の中身に関して、具体化精度を最大化してないものまで含める量的ケースと含めない質的ケースを、
局面に合わせて使い分けれてない、という意味でその原理を欠いてる類の主張)に頼らずに済みます。

ご支援の程よろしくお願い致します。