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昔の若者が今の若者に言ってみたいなと思ったこと

世の中に世代対立があるのは当然だ。

もちろん全てを世代論で括ってしまうのは危険だけれど、大雑把に傾向を捉えているのも確かだと思う。だから、「いや、俺はそうじゃない」と言う人もざっくりと読んでざっくりと考えてもらえたら嬉しい。

これはここ2~3年、いろんな情報に接している中で僕が感じたことだ。

で、その世代論で言うと、世の中に世代対立があるのは当然だ。いや、あからさまに対立することを嫌う今の若い世代の人たちとの間では世代「対立」にはならないのかもしれない。ま、それはどっちでもいいや。

とにかく世代によって違いがあるのは当たり前だ。

何故なら僕らと君らは違う時代を生きてきたのだから。それに、僕らと君らの間には年代差がある。年齢が違えば感じ方や考え方に違いが出るのも至極当然のことだ。

マーケティングの世界では時代・世代・年代の3つの「代」を考えろと言われたりする。僕らと若い人たちとの間で共通するのは今同じ時代を生きているということだけだ。

しかし、それにしても、僕らがもっと古い時代から、それこそインターネットなんて存在しなかった時代からいろんなアプリを使いまくっている今の時代まで、変わり行く時代を長々と生き抜いてきたのに対して、今の若い世代・若い年代はただひたすら今を生きているという違いがある。

お互いの感じ方や考え方が読み取れなかったり理解できなかったりするのもむべなるかな、というところじゃないかな。

だから、若い人たちの感じ方や考え方を尊重しようというくらいの気構えは僕にもちゃんとある。しかし、それにしても僕が時々思うのは、「しかし、それにしてもなんで君らは最初からそんな茨の道を行こうとするのかな?」ということだ。

あまりヘビーでない例を出そう。

君らの中には「登場人物に感情移入できない小説は楽しめない。途中で読むのが嫌になってしまう」などと言う人が少なくないらしい。あるいは「自分にとって違和感のある情報に対しては強い拒絶反応を示す」などとも言われている。

全く共感できない人物が主人公の小説でも楽しんで読んでいる僕なんかにとっては、それはとても不思議な感じ方ではあるのだけれど、だけど、まあ、微塵も理解できないとまでは言わない。

ただ、世の中を見回してみると、自分が共感できる人物より共感できない人物のほうが遥かに多いのである(そうじゃないだろうか?) そんな世の中で感情移入できない人やモノを遠ざけていると生きるのがどんどん窮屈になるんじゃなかろうか。

「違和感あったって気にしない」ぐらいのほうが、人生は遥かに楽になるんじゃないかな、なんて年寄りは思ってしまうのである。

しかも、不思議なことに、時に君たちは「感情移入できないから」と途中で読書を投げ出してしまうのではなく、多くの本を読んでいる先輩などに「どうやったら感情移入できない主人公の物語を楽しく読めるでしょうか?」などとアドバイスを求めたりもしていると聞く。

うん、それはある意味偉いとも言える。しかし、読むのがしんどい本は投げ出したほうが楽じゃないか?

本なんていくらでもある。楽しんで読める本もいっぱい見つかるはずである。と言うか、フツーに行けば投げ出して終わりになるところだ(と僕らは思うのだ)が、しかし君らはそこを乗り越えてなんとか読もうとする。

その真面目さがとても不思議でもあり新鮮でもある。それはしんどくないのかな?と言うか、しんどいからやめておこうとは思わないのかな?

動画を早送りで観ていることを、上の世代から批判がましく言われたこともあったよね。でも、よくよく聞いてみると、何でもかんでも早送りで観ているわけではないとのことだ。ただ、情報収集的な見方をする場合は早送りで観ることも多いという。

それもまた合理的である。でも、そんな風に情報収集しようとすること自体が、よく考えてみると大変じゃないか?

友だちと同じ情報や感動を共有することをあまり生真面目に追い求めると、しんどいことない?

むしろ、「自分は何かについてよく知っている。ある友だちは別のことをよく探求している。また別の友だちはまた別の何かに没頭していて、その辺りのことにとても詳しい」──みたいに食い違っているほうが、みんなが集まった時に世界が広がるし、何より楽だし、(仮に通じ合えないことがあっても)むしろ楽しいと思うんだけどな。

同じ本を読んでいなかったり、よく似た動画を見ていなかったりしても、共通の話題なんてどこかしらに見つかると思うよ。僕は人生ってそんなもんだと思っている。

きっと君らは「昔はそうだったかもしれないけど、今はそんな時代じゃない」なんて言うのかもしれないが、でも、そもそも今の時代のあり方に君らは満足しているんだろうか?

人生で使える時間は限られている。だからタイパを求めるというのは極めて真っ当な考え方だけれど、なんか茨の道だなあと思うのである。

もっとイージーに生きてみたら、そこに見えてくるもの、開けてくるものもあるんじゃないだろうか?

なんてことを言うと、僕らの世代の誰かから「お前、よくそんなこと言うなあ」とか「お前が言うな」などと言われるかもしれない(笑)

ある意味、若い頃の僕(たち)自身がとんでもない茨の道を歩いてきたのかもしれないのだから。

僕らが若かった時代、楽をすることは明白な悪徳だった。それでも若者たちは時に楽をしようとしたものだが、往々にして先輩たちにそれを阻止された。忍耐こそが美徳だった。自ら苦労を求めてこそ皆に尊敬されるというものだった。

会社に入って僕らが先輩たちから最初に試されたのは、「この新入社員はどこまで耐えられるか」ということだった。そのために僕らは毎日、今で言うなら明らかなパワハラを受けた。僕らはそれに必死で対処した(単に耐えるだけではなかったけれど)。

それが良かったなんて決して言わない。ただ、そういう時代を生きてきた。耐えてその環境で生き抜くことがほぼ唯一の生き方だった。

せっかく入った会社を辞めてしまうような奴は人生の落伍者の烙印を押された。そこで耐えられない奴はどこに行っても使い物にならないと言われた。実際、転職すると給料や労働条件は前より如実に悪くなるのが一般的だった。

そんな時代を生きてきた僕らが、(いや、「僕が」かな?)老人になった今頃やっと気づいたのである。もっと楽に生きても良かったのかも、あるいは、生きられたら良かったのに、と。

あまり他人に同調せずに生きてきたつもりではあったが、しかし、今振り返ると、僕(ら)の道もやはり鋼のような茨に満ちた道だった。

うん、ひょっとしたら若者が茨の道を進んでしまうのは必然なのかもしれない(笑)

だから、僕は君らを非難しようとしているのではない。君らは君らの感性で思う通りに生きていけば良い。

一方、僕らは僕らの感性で、うっかり君らの気に障ることを言ってしまうかもしれないが、(今の若い人たちは揉めないことを最優先して他人の気に障るようなことは言わないようにしているのかもしれないが、その点では僕らの世代はそうでもないので)そこは許してくれ(笑)

あまり気にしないで、君らの思う通りにやれば良いのである。

ただ、老境に達して、やっとのことで茨の道からはみ出し始めた者として、ひとつだけアドバイスすると、「もしこれをしなかったら、もしこれでなかったら、ダメかもしれない」みたいな考え方はあまりしないほうが良いんじゃないかな、といういこと。

ま、いっか、と思った瞬間に、目の前に茨でない、イージーでハッピーな道が現れるかもしれない。

今は無理かもしれないけれど、君らの人生が次第に楽に、イージーにハッピーになってくることを、僕は心の底から願っている。

◇ ☆ ◇ ☆ ◇

(註)以下は、このようなことを考え、上記の文章を書くもとになった三宅香帆さんの note と、僕自身の note の記事です。


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