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人間ならではの面倒臭さとは

 今日は急に気温が下がり、冬を感じさせる日和だった。
 この寒さも懐かしい。


 かつての私は服を着ていなかったのだと思う。

 着飾るという事、まわりの環境や状況に応じて都度、適切な選択を取る事を、昔から、馴染み無く感じていたからだ。

 生まれつき自身に備わったもので、寒さや日照り、風や水、雪などから十分身を守れた。
 そしてまわりの全てとの一体感、「自分は全ての一部である」という感覚を持っていたせいか、生まれ持った姿、身の内に備わったもの以上に、どうして必要なものがあるのだろうか、という感覚だった。
 何かを身に着ける、という発想がそもそも無かった。

身の内に、生きる上で必要なものが全て備わっている。
 即ち、生き方や生きる上で目指すものが明確であるということだ。

その時の私は、仲間と一緒にいて、走って、じゃれあって、共に眠ることが全てだった。
 「何をしていようとも、いかなる時でも、私も、まわりの仲間も誰もが、世界の一部分であるのだ」という絶対的な肯定感、生きることすべてに対する、圧倒的な充足感を感じていた。

〈生きる術〉は、自身の身体に完璧な状態で備わっており、生き方、生きる目的なども、自身の身体が表しており明確だった。

 だから何も、深く悩むような悩み事も無かった。ただシンプルに、身体に備わった〈生きる術〉を駆使し、仲間と共にいるだけが全てだった。

だから「人間らしさとは何か」と聞かれたら、私は「〈生きる術〉や、生きる上で目指すところが明確でないところだ」と答えたい。

 人間は職業(生きる術)や、宗教や住居など、あらゆるものに正解が無く、本当に多様である。この不確実な部分の多さが人間特有だと思う。

この部分は創造性というのだと思う。
 生きていく上で、動作や文化、身の回りのあらゆる世話等において、創造をきかせる場面や幅がすごく多い、というのが、人間の特徴なのだと思う。
 以前ならば明確に定まっていたあれこれが無く、色々な事象に対して選択を沢山重ね、努力していかねばならない。そして常に、選択の正解が見えない。

 だから人間はシンプルではないのだ。面倒臭いのだ。
 その複雑な部分が、人間社会における、想像を絶するほどに醜いもの、ため息が出るほど綺麗なものを形作っているのだろう。
 そして両者共、自分が今人間だからこそ、ここまで色濃く味わえているわけなのだ、と思う。
 本当に人間は生きるのが面倒な生き物だなと思えて仕方がない。だが今は、折角人間なのだから、その面倒な部分を味わえる分だけ味わって、いつかまた私の懐かしいと思う感覚の所へ戻りたい。と思う。