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主を畏れる心:聖書をめぐる旅 2/6

2/6(日)
 神殿建築を始めると、手伝うという民が現れます。しかし、彼らの本性は自分たちの既得権をおかす帰還したユダヤ人を妨害することにありました。
詩編147編は、人間が見るようには神様は見ないことを改めて確認しました。 

エズラ記4章

3しかし、ゼルバベルとイエシュア、他のイスラエルの家長たちは言った。「わたしたちの神のために神殿を建てるのは、あなたたちにではなく、わたしたちに託された仕事です。ペルシアの王キュロスがそう命じたのですから、わたしたちだけでイスラエルの神、主のために神殿を建てます。」 4そこで、その地の住民は、建築に取りかかろうとするユダの民の士気を鈍らせ脅かす一方、 5ペルシアの王キュロスの存命中からダレイオスの治世まで、参議官を買収して建築計画を挫折させようとした。

→バビロンから帰還し、神殿建築を進めるユダヤ人に、捕囚されずにその地に残っていた人々が自分も建築を手伝わせてほしいと言います。
しかし、帰還したユダヤ人は、それを退け、自分たちだけで神殿建築をすすめると言います。
ちょっと、心が狭いなあと思いましたが、ここで建築を申し出たのはサマリア人のようです。彼らにとっては、ユダヤ人がエルサレムを去り、その後既得権をもっていたのに、バビロンから帰ってきたユダヤ人があたかも、当然のように自分たちの神殿を作るのを赦せなかったのです。
彼らは、ペルシャの王様に、この町に神殿を作るととんでもないことになる!という手紙を書いて、神殿建築はストップしてしまいます。
 これは、イスラエル国家ができたときに、パレスチナが既得権益を主張して反対してきたことと重なります。神の民に礼拝をさせないようにする力の背景は、
いつの時代もあります。民が一つになって、霊とまことをもって神様を礼拝する威力がどんなものか、悪魔が恐れているからだと思いました。


詩編147編

10主は馬の勇ましさを喜ばれるのでもなく
人の足の速さを望まれるのでもない。
11主が望まれるのは主を畏れる人
主の慈しみを待ち望む人。
19主はヤコブに御言葉を
イスラエルに掟と裁きを告げられる。
20どの国に対しても
このように計らわれたことはない。
彼らは主の裁きを知りえない。
ハレルヤ。


 立派な車に乗っている人がいると、さぞ立派な仕事をしているのだろうなあ、身体能力が高いと、きっとすばらしい人なのだろうなあ、と人間は見てしまいます。
でも、神様が望まれているのは、その人が持っているモノや身体的な能力ではなくて、主を畏れる心、主の慈しみを待ち望む人です。
主を畏れるとは、心からの礼拝をささげる姿であり、主の慈しみを待ち望む人とは、神様の救い、そして神様と空中で再会する携挙を待ち望む人だと思います。

 神様は、この地上を旅するイスラエルの民に、御言葉と掟をプレゼントしました。御言葉と掟こそ、イスラエルがほかの民とちがって、賢く祝福されている民の証拠でもあります。
あなたの御言葉はわが足のともし火、あなたの御言葉はわが道の光!
ハレルヤ!感謝します。


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