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わかっちゃいるけど・・・:聖書をめぐる旅 2/21

2/21(月)
 ネヘミヤ記は仮庵の祭りの後、イスラエルの民が断食して罪を悔い改めています。箴言12章は自分の土地を耕すとはどういうことか、考えてみました。 

ネヘミヤ記9章

26しかし、彼らはあなたに背き、反逆し
あなたの律法を捨てて顧みず
回心を説くあなたの預言者たちを殺し
背信の大罪を犯した。

 仮庵の祭りの後7月24日、イスラエルの人々は集まって、粗布をまとい、断食しています。
彼らは異民族との関係を一切断ち、自分の罪科と先祖の罪科を告白しています。1日の1/4を聖書を読み、1/4を主の前に向かって罪を告白し、ひれ伏していたとあります。

 イスラエルの代表が神様に向かって祈っています。その祈りは、神様が自分たちにしてくださったことの確認と、それにもかかわらず民が罪を犯したことの悔い改めです。

 駄目だとわかっているのに、ついやってしまうことってないでしょうか?昔植木等さんが、「わかっちゃいるけどやめられない!」と踊っていましたが、これはある意味人間の本質をついているように思います。罪の性質を持つ人間は、わかっているのにやめられない悲しい存在です。奴隷の身から解放してくださった神様を捨てて偶像に向かうなど、ちょっと考えれば神様に対する裏切りだと思いますが、それをやってしまうのが人間です。

 私の気持ちは、神様この哀れな存在である自分を憐れんでください・・・としか言いようがありません。しかし、神様の救いは、私のこの罪を赦すだけでなく、罪の根本的な問題である私自身をイエス様と一緒に十字架につけることによって、新しい人生へと接ぎ木してくださいました。私と罪との関係は、死によって断絶されていることを感謝します。もう、罪の奴隷ではなく、神様の目的のために生きる自由が与えられている存在に変えられました。

 ネヘミヤ記のイスラエルの民は、叫んでいます。「私たちは奴隷にされています!」
彼らは、のちの時代に、奴隷の身から解放される子孫が現れることをまだ、知りません。


箴言12章

11自分の土地を耕す人はパンに飽き足りる。
意志の弱い者は空を追う。

 自分の土地を耕すとは、当たり前のことですが、ついつい隣の芝はよく見えるものです。また、自分で汗をかくことをしないで、土地が整うことをのぞんでしまうのが人間の残念なところです。

 テレビでプロ野球をみていると、監督より偉い方がいます。監督の采配にいちいち文句をつけ、自分の予想通りにしないと駄目な監督!と言います。まるで、自分がオーナーにでもなったようです。負けても、自分は責任もとらないのに。

 私にとって自分の土地とは何か?
最近、子どもの権利についての研修が職場の中でありました。子どもに関する仕事をしているので、この子どもの権利はとても大切なことです。たくさんある子どもの権利は、大きく3つに分けられるそうです。一つは「保護」、一つは「教育・福祉」、そして最後の一つは「社会参加」でした。命に係わることから順番になっていて、保護や教育・福祉のことはその道の専門家がいます。しかし、社会参加については、意外に少ないと思いました。
私にとっての自分の土地とは、この社会参加の領域だと気づきました。
ハレルヤ!感謝します。
この土地を耕すと、パンに飽き足りる。

 さあ、今日は耕すよりも雪かきです。

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