見出し画像

第19段 主観的な死を考えてみた

主観的な死とは。

まずは、逆からいこう。
客観的な死とは。

体が動かなくなる。
脈拍が止まる。
心臓が止まる。
呼吸が止まる。
死後硬直の状態になる。
体が腐り始める。
まあ、脳波が停止する脳死なるものも
あるようだが、脳波とか言われても
よくわからんから、見てわかる他者の死とは、
大体こんな感じだ。


私は、よく魚を殺す。


釣り人だから、釣り上げたばかりの
生きている魚を、
食べるために殺すことはしょっちゅうだ。


小物のアジなどは、
バケツに入れたままにしておくと、
勝手に弱って死んでいる時がある。

そうしたら、傷まないように
クーラーボックスに移すというわけだ。

少々大き目の魚が釣れたら、
アジと同じように勝手に死ぬのを
待っているわけにもいかない。

なにしろ大物の方が生命力が強いわけだ。

心臓だけ切り取って体から出してみても、
数分は動き続ける。
心臓とはこんなにも
強い働きをする臓器なのだ。

魚を殺す、最も手軽な方法は、
首のあたりの背骨を両断することだ。

これにより、神経もまとめて切断できる。

骨は硬いので、一気に包丁の刃を突き立てる。

狙いを定めて、なるべく刃の先端を
鋭角に当てて、そのまま押し切る。

すると瞬間、魚がバタバタっと暴れて、
動かなくなる。

もっとも、その後でも、
神経反射は残っていて、
身だけになった部分が
プルプル震えることがある。

結構小さい魚でもこの反射は起きるので、
私も最初のころは随分と驚いたものだ。

これが、魚を殺す時の生々しい描写である。

このように私は、魚を通してではあるが、
死という現象を、
身近なものとして観察している。


これは、客観的な死というものだ。


だが問題は、
私が死んだらどうなるのか?という、
主観的な死の定義、
これこそが最も大事なのではなかろうか。


もちろん、客観的な定義通りの現象が、
私の身に生じるのだろう。

体が動かなくなる。
呼吸が止まる。
心臓が止まる。
体の全てが機能停止する。

するとどうなるか。
目は、見えなくなるだろう。
鼻は、息を吸うことも吐くことも
出来なくなり、匂いを感じることも
なくなるだろう。

耳から入ってくる音も、
聞こえなくなるだろう。

口は開かず、開いていたら閉じず、
舌を動かすことも、呼吸もできなく
なるだろう。

もちろん喋ることもできない。

そして手も動かない。
何も感覚はない。

痛いとか痒いとか、暑いとか寒いとか、
熱いとか冷たいとか、
そういう感覚もなくなるだろう。

痛みを感じるということは、
生きている証拠でもあるからだ。


心臓も停止する。
血液が止まる。
全身に血が巡らなくなる。
脳にも血液がいかなくなる。
意識が朦朧とする。
そして意識がなくなる。

そしてそれからは・・・。

意識がないのだから、何も感じない。
苦しいとか楽しいとか、
そういう感情も消える。

何も見えないし何も聞こえない。
何の匂いもしないし何の味も感じない。
何の触覚もない。
意識がないとはそういうことだと想像できる。



これが、死だ。



もっとも、これは私が空想して
言っているに過ぎず、
実際は違うのかも知れない。

あくまで仮説である。

誰だって、死んだことなどないのだから、
死んだらどうなるかを語るのは
全て空想に過ぎない。

こう書いていて気付いたが、
私たちは毎日、
死の予行演習をしているではないか。

勘の鋭い方は、もうわかっただろう。

毎日私たちは一定の時間、意識を失っている。



そう、それは毎日の睡眠だ。



私も38年間、毎日寝ているが、
未だに意識がある時と、
寝た後の無意識との境目が
どこなのかわからない。

「あっ、今寝たな」

と意識することができない。

それはそうだろう。
寝るということは、
意識を失うということなのだから。


それほど自然に、
滑らかなグラデーションのように、
意識のある覚醒状態から、
無意識の睡眠状態に移行してしまう。


そして、その切り替えの瞬間は、
別に苦しくも何ともない。
むしろ、心地良い。

意識を失うのは、
何とも心地良いものなのだ。


現実の雑多な情報が飛び交う
カオスな世界を離れて、
一人夢の世界へと向かうのだ。

そこから先は、
完全に私の頭の中だけの世界だ。


たまに、現実世界で
とんでもない音が聞こえたり、
眩しい光がまぶたを通して
目に入ったりすると、
目覚めてしまうこともあるが。


夢の世界であった出来事は、
たまに覚えていることもあれば、
ほとんどの場合はすぐ忘れ去ってしまう。


要するに、
死ぬことは寝ることと
似たようなものではないか、
ということが言いたいのだ。


体は残したままだが、
意識が消失するという点では、
寝ることと死ぬことは
似通っているのではないか、
というのが私の仮説だ。


つまり、「あっ、今死んだな。」と
意識することも、おそらくはないのである。

つまり、生きているときと、
死ぬ瞬間では、
意識から無意識への切り替えが
極めて滑らかなグラデーションで起きるため、
私はそのタイミングを認識できないのだ。


これが私の仮説だ。
この仮説は、私の死の瞬間に、
その正否が判明するだろう。


もっとも、その時にはすでに、
私という人間の意識は、
この体から消失しているわけで、
結局のところは何も分からないのだろうが。

210617初稿
210625付け足し
210710最終校正

サポートまでしていただけるとは!!感謝の念しかありません!いただいたお金は、文筆活動費として有効に使わせていただきます。