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[建築プレゼン 4] 「正しさ」の難しさ

山です。

先日、友人に誘われて、とある大学の卒業設計の公開講評会に行きました。実際の講評の場を見るのは久しぶりだったのですが、会場はたくさんの人で埋まり、かなりの盛況ぶりだったと思います。来ている人も他大学の学生や卒計を来年以降に控えた下級生が多かったようで、その雰囲気は自分が学生だった当時と変わらない高揚感がありました。

僕自身も講評会がはじまる前は、力の入った模型を楽しんだり、ボードからでは読み取れない部分を想像したりと期待していたのですが、学生のプレゼンがはじまると、結論から言ってタイトルのようなことを感じたのでした。そのあたり、しばらくモヤモヤと考えていたのですが、霧散してしまう前に一度思うところを書いておこう、と思ったのです。


「正しさ」 と 「正義」

きっかけとなったのはある作品を巡っての講評でした。その作品は丁寧によどみなく説明され、言葉やビジュアルから受け取れる情報も過不足なく感じられました。背景となった社会の状況や街の抱えた問題から、このような建築が必要で、そのためにこうなった、という明快なプレゼンテーションでしたが、一人の審査員の先生がその作品に対してこう述べたのです。

この作品の「正しさ」ではなく、君にとっての「正義」を語ってほしい

その提案の有意性を語る前に、なぜそれをやらなければならなかったのか、その動機(=正義)が見えてこないという指摘です。

なるほど確かに、設計に限らず何かを提案する際には現状の把握→課題の発見→解決策の提示というのは王道の説明手順だと思います。その意味でこの作品のプレゼンは間違いなく「正しい」ものでした。
しかし、「正しさ」が積み上がっていくほどに、どこか素直に納得しづらい感情や懐疑的な思いも自分の中に湧いていて、この一言は的確にその違和感を突くものでした。

実現を前提としない卒業設計(あるいは設計課題)では「正しさ」は必ずしも正解とはならないことは、感覚的に共有できるのではないでしょうか。

この「正しい」作品がもつ微妙な評価のしにくさ。これはいったい何なのでしょう? 提案の内容は一旦置いておいて、プレゼンテーションの技法的な側面からその理由を考えてみます。


説得するか納得させるか

プレゼンテーションのゴールは端的に言えば自分の提案を受け入れてもらうことです。画作りやストーリーの組み立てはそのための演出で、言いたいことを補強する副次的な要素です。
目指すゴールは同じでも、そこにたどり着くための道筋はいくつもあって、それらを大別すると「説得するプレゼン」「納得させるプレゼン」の2種類にまで単純化できると僕は考えています。

ただ、この2つは対極にあるものではなくて、「説得」も最終的には相手が「納得」することを求めます。この「説得」のタームをすっ飛ばして「納得」に導く。そんなことが出来るのだろうかと思うかもしれませんが、そういったプレゼンテーションのテクニックも存在するということです。それぞれ次のようにまとめられます。

「説得するプレゼン」は提案の始めから終わりまで筋道立てて説明し、想像される質問や批判にも適切な応答を用意します。つけ入る隙を丹念に潰しておくことで自分の望むゴールへと誘導する。これは言い換えれば相手を屈服させる、いわゆる理論武装型の形式です。

もう一方の「納得させるプレゼン」は見る人の快感に訴えかけるものです。相手の好意を引き出すことで、言い負かすのではなく味方につける。そのためには楽しいイメージを喚起したり、詩情をたたえた言葉が効果的に用いられます。説得されていると感じさせない巧妙なレトリック(あるいは天然でポロっと出る言葉)は、時として積み上げられた理論の上を悠々と飛び越えてしまう魅力を持ち、相手を自らゴールに向かわせる力を持ちます。

で、先ほどの「正しい」プレゼンですが、これは明らかに説得型に属するものです。「正しい」プレゼンを評価しにくいのは、説得型のもつ性質が卒業設計や設計課題というフォーマットにそぐわないからだと思うのです。


「説得型」は答え合わせになりやすい

「説得するプレゼン」の勝ちパターンは先にも述べたように、相手に有無を言わせない状況を作りだすことです。その性質上、提案の要所要所で「ここまでOK?」「ここまでOK?」と確認するかたちになりやすい。そうすると見る側としてはチェックシートで答え合わせをしているのと同じで、自然にアラを探すような見方になってしまいます。
また、説得する論調はどうしても断定などの強い言葉を必要としがちです。卒業設計や設計課題は基本的にアマチュアの作品をプロが見るという構図ですが、このときにアマチュアがプロに対して訳知り顔で正論を述べると、やはり「ちょっと待てよ」となるのです。

あるいは、その確認箇所がすべてOKだったとして、今度はそれに対して言うことが特になくなってしまいます。よく「優等生的」という言葉に置き換えられますが、これでは批評を生む余地がありません。

結果として説得型は作者の中での自己完結に陥りやすく、これが「正しい」プレゼンの評価のしづらさの一因だと考えられます。


「納得型」は勝手に大きくなる

一方の「納得させるプレゼン」はとにかく見る人を気持ちよくさせます。その提案が描く情景や未来像に引き込み、一緒に考えることを許容します。その点、「説得型」と比べると隙があるとも言えるでしょう。受け手は心地よさの中でその提案の可能性を勝手に検討してくれます。また、理論の穴は各々が好意的に解釈し埋めてくれるでしょう。
そういった深読みを許すことも快感のひとつです。その結果、作者が想定していたものよりも大きく、遠くまで届くものとして受け止められます。

建築の提案としてそれはどうなの?と感じる部分もあるかもしれませんが、そもそも、建築に限らず学生時代の作品は完成度の高い磨かれたものよりも未熟だけど可能性を感じるものをよしとします。なので、可能性を見る舞台でもある卒業設計との親和性はとても高いと思うのです。

じゃあその快感の源は何なのか。それがはじめに「正しさ」と対で述べられた「正義」です。作者のごく個人的な経験やオリジナルの問題意識から立ち上がった、自分にとっての「正義」には、外的要因から組み上げられた理屈からは得られない面白さ(≒わからなさ)が宿るのだと思います。
奇しくも今年の「せんだい」では「愛」という言葉が飛び交っていましたが、これも同じことの言い換えです。どうしようもなくそれをやらなければならなかった衝動を感じる作品は、多少めちゃくちゃでも話を聞きたいと思わせる力があります。

こうして考えていくと、最初の審査員の言葉が徐々に

御託はいいから、俺を魅了してくれ!

と言っているような気がしてきました。


おわりに

ただ、あらゆる場面において「納得させるプレゼン」が適切かというとそれは違うだろうと思います。卒業設計や設計課題には「実際には建たない」という前提があり、また学生という立場も相まったある種特殊な表現形式なのかもしれません。

公共建築のプロポーザルなどでは説得性が優先されるでしょうし、何より自分が施主の立場でプレゼンでいきなりポエムを読まれたら困っちゃうと思います。「正しい」ということはそれ自体が価値あるものです。そうした説得する手順を学ぶことも軽んじられるべきではないでしょう。

また、受け手に快感を与えることは、行き過ぎれば近年指摘されている卒業設計のアイデアコンペ化に連なるようにも思えます。こうして技巧として語ることもあまり健康ではないのかもしれません。(そもそも意識的に行っていることではないかもしれないし。)


などと、一旦はまとめのようにしましたがこの辺のことはしばらく考えるんだろうなと思います。
ちなみに今年の「せんだい」の講評会がYoutubeに全編上がっていました。(休憩時間飛ばして見ても3時間半くらいあった……。)

ありがとうございます。
山でした。

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