よい本の条件

本づくりに関わる仕事をしている人は、著者にしろ、編集者にしろ、デザイナーにしろ、ほぼ全員が「よい本」をつくりたいと思っているだろうし、もちろん自分もそのひとりだ。

ただ、当然この「よい本」の捉え方についてはさまざまで、好みや立場に限らず、ブックデザインを仕事とするひと同士でも意見が異なることは珍しくない、というよりもそのほうが明らかに多い。
誰でも自分にとってのよさを長い時間をかけて醸成してきているはずで、簡単にそれを定義したり枠でくくるのはナンセンスだ。

じゃあなぜこんなタイトルの文章を書くのかというと、以前書店をうろうろしていたら、自分の思う「よい本」像を的確にくすぐる本に出会ってしまったからだ。(ちなみにこれから書く「よさ」は物としての本についてで、内容どうこうは特にない。)

「STANDARD BOOKS」という、平凡社から刊行されているシリーズを初めて目にしたのは2015年の12月で、ちょうど発売されて数日というときだった。最初の配本は「寺田寅彦」「野尻抱影」「岡潔」だった。
科学と文学を横断的に捉えた知性を持つ書き手の随筆集とのことだが、特にそんなことは気にせず、新書判程度のサイズと清潔感のある装画に「お!」と思って手にとった。

そしてまず、思いがけずハードカバーだったことにときめいたのだ。

この時点で内心「これは買っちゃうだろうな」と思っていたし、それから店内でしげしげと見た結果「STANDARD BOOKS」という名前のとおり、それはとても素直な本であるということがわかった。

ジャケットをめくると、こぶりなサイズに合わせてハードカバーの板紙も薄く、シャープな印象で野暮ったくない。薄いグレーの表紙はポルカを使っていて細かくカラフルなチリも可愛らしい。表紙の背に薄墨で入ったタイトルはとても上品だし、見返しはレイド(簾目模様)が入っていて若干明るい色もいい。さすがに糸かがりではなかったけれど、本文用紙も書体もなんだかよく見えてきた。
このように、装丁の随所に行き届いた配慮がどれもとても心地よく、感心してしまった。

何より、これが単行本でなくシリーズ物で実現されていることはすばらしいことだと思った。特定の著者、内容でないシリーズ物では装丁自体が強い意味を纏っては具合が悪いが、しかしまったくの無味乾燥では魅力がない。
つまり、内容とは距離をとりつつ読者とは関係を結ぶという微妙な塩梅を担う器が求められ、現に僕はそこのフックにまんまと引っかかったのだ。

この体験から自分にとってのよい本の条件をはっきりと意識するようになって、つまり僕は本に、ちゃんと本であることを求めている。

例えば見返しをめくったとき、はじめに見えるページはなんだろうか。
大抵は表紙と同様にタイトルの入った扉ページである。もっと丁寧に設えられた本だと小さくタイトルの入った「小扉」があって、そのあとにもう一度「本扉」が続く。
「扉」という名前は建前ではなくて、本当にその内容に入るための入り口なのだ。門をくぐって、庭を通って玄関に至る。そうしたシークエンスを経て、僕たちは正しく本の中に招き入れられる。
これがページ数か折の都合か、見返しをめくったらすぐ目次、となっている本をたまに見かけるが、そうなるとどんなに装丁の凝っている本でも途端に陳腐に感じてしまう。玄関を開けていきなり居間につながっていたら、やはりそれは居心地が悪いのだ。
いやいや、本にとって重要なのは情報だから、と割り切るならば電子書籍を読むほうが潔くていい。

紙の本の強みである物性を担保してくれるのは、ちゃんと本であろうとする意志だと思う。ふんだんに予算をかけた豪華本でなくとも、それを実現しようとする気概を僕は「STANDARD BOOKS」に感じたのだった。


というような話を誰かとしたいなと思う。

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