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中国史小話集①

【陳勝・呉広の乱と秦の滅亡】
始皇帝没後に起きた陳勝・呉広の乱は中国史上初の農民反乱で、秦のガチガチすぎる法治による締め付けが原因と考えられる(あまりにも法が厳しく、役人たちは自分が法を犯さないかどうかに気を取られ、民のことまで気が回らなかったらしい)。
この乱は官軍の将軍・章邯の活躍もあり、すぐに鎮圧されるが、戦国時代の各国の王族らが呼応し、群雄割拠の状態となる。そんな中、楚の項羽が中心となって秦打倒のうねりが起きる。そして、諸侯らの支持を受けた劉邦と、覇権を握る項羽の一騎打ちになるわけだが、秦の滅亡は始皇帝没後わずか3年後のできごとである。
項羽と劉邦の争いは劉邦の勝利で終わり、劉邦が皇帝に即位して漢王朝が成立する。

【『三国志』に立伝されていない重要人物】
中国の歴史書(正史)は王朝に関わった全ての臣下を立伝しているわけではないが、『三国志』はときに重要な人物が立伝されていない。その代表が呉懿と呉班である。ふたりは劉璋配下の名将で劉備、劉禅の元でも活躍し、また劉備の外戚でもあった。蜀漢は史官がおらず、そのために多くの資料が散逸したとされ、立伝されていない人物が多い(楊戯の『季漢輔臣賛』を丸ごと収録しているのは列伝を補填するためとされる)。しかし、外戚という重要な立場にいた人物の資料が簡単に散逸するとは思えず、呉懿、呉班が立伝されていない点には疑問を感じる。

【中国の正史と仏教・道教】
中国では伝統的に儒教を国教に位置づけていたためか、史書に「儒林伝(儒者たちの列伝)」は設けられる一方で、仏教、道教関係者専門の伝は立てられず、「方伎伝」や「芸術伝」に数名が散発的に立伝される程度であった。
また、制度をまとめた「志」にも仏教や道教が取り上げられることはなく、『魏書(北魏の歴史書)』に「釈老志(釈→釈迦=仏教、老→老子=道教)」が設けられているのは異例である。北魏が代々仏教を厚く信仰した(太武帝の時期に廃仏はあった)ことが関係しているのだろうか。
それ以外では『元史』に「釈老伝」があるほか、仏僧は『晋書』に仏図澄、鳩摩羅什、『旧唐書』に玄奘、神秀、一行、道士は『旧唐書』『新唐書』に司馬承禎が立伝されている。

【老子について】
老子は中国・春秋時代の思想家であるが、周王朝に仕え司書のような仕事をしていたこと、戦乱を避けて西方へ旅に出たこと、途中の関所で役人に請われて『老子』2巻を著したことしかわかっていない。老子も「おじいちゃん先生」程度の意味合いであり、本名もわからない(一説では李耳とされる)。
西漢(前漢)の司馬遷が『史記』を編纂した際、すでに老子がどういう人物かわからなくなっていたようで、司馬遷は「この人物ではないか」と候補を3人ほど挙げている(老子韓非列伝)。
後世、太上老君として神格化され、道教の始祖として崇められている。インドで釈尊になったとする伝説もある。

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