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高知県中土佐町大野見、ここに始まる。

今を去る1380年ぐらい前(600年ごろ)、 用明天皇の頃、仁井田の川の内の百姓に長左衛門という人がいました。ある日、伊勢川と川の内の境にある若目山にあがって、山の上の高い木によじ登り、はるかに北の方を眺めました。(地図下部)

現大野見地区の地図


大野見を発見した長左衛門。

そこには黒々とおいしげった大きな山波が続いていました。が、その中に、広い平原と思われるものを発見したのです。長左衛門は喜び勇み、あくる日、若い者数人をつれて、危険 をおかして数日の間、この未開の土地をさぐりました。その翌年彼は、先に若目山からこの大きな野原を見た土地という意味で、“大野見”と名付け、この土地を開きはじめました。
 最初は奈路(本邑ともいった)村の中央部である今の奈路、喜田(きだ)方面がまず開かれました。これが大野見村の草分けであったといわれています。長左衛門らは、続いて久万秋(くまあき)、吉野、更に奥の神母野(いげの)方面を開いて行ったそうです。 

大野見ー神母野付近。朝の風景。

長左衛門、大野見を開拓していく。

 その当時は道具もなく、その上、熊、さる、山犬(オオカミ)、などがたくさんいて危険千万であり、夜は小屋のまわりに大きな火をたき昼間 でも、見はりを立てて仕事をしたとのことです。この頃は、野原を開くにせい一ぱいで、わずかに畑作として、あわ、ひえ、きび、 だいづ、ひゅうが(黒あづきかささげのようなもの)などが作られたそうです。
 その後、大野見の野中兼山ともいわれる蔭石和尚蔭という人が東北からの旅で大野見にたちより、川をせき、溝をほって立派な水田にしたてたといわれています。



1968年5月1日 第26号
発行 大野見村教育委員会



令和の便利で幸せな時代に思うこと。

自分の住むまちに、悠久の時間を感じたことがあるだろうか。
祖父母が戦争に行った時代、近くの山から水を引いていた時代、最寄りの駅がなかった時代、飢餓に苦しんだ時代、車の代わりに馬を引かせていた時代、まだそこに人が住んでいなかった時代。

それは、どこまちにもあるはずだけど、意識したことがある人はいるのだろうか。

少なくとも私は、ここ高知県中土佐町大野見に来るまではなかった。
というか、町役場に眠る60年前の広報誌を読むまではなかった。

1968年発行の「広報 大野見」

ページをめくると大野見の歴史や民話、暮らしぶりが記されている。
そこには歴史の教科書に出てくる偉人など一人もいない。

それがいいのだ。

趣味に生きる猟師、村人に重宝された唐箕大工や鎌鍛冶職人、川漁の達人、その強靭性で名を馳せた瓦焼き職人や左官、自転車で家々を駆け巡った助産師、山暮らしと不可分の炭焼き職人や山師、、、。

さらには祠に祀られる夫婦遍路の言い伝えや悲話、大野見城の歴史まで。
それらは閉じ込められた過去ではなく、大野見の人々の暮らしに、知恵として、祭りとして、誇りとして、村民性として息づいている。

断っておくと、「便利な」暮らしを否定したいわけでも、記録を美化してその時代の暮らしに戻るべきだ、と言いたいわけでもない。

ただ、「便利な」暮らしの獲得とともに消え去った暮らしの中の身体性や野生性、さらには山岳信仰にみられるような神秘性をもう一度、村人の軌跡からなぞりなおすことで、日々の暮らしに埋もれてた新しい面白さや豊かさを見つけることができるかもしれない。

とか、かたいことを書いてみたけれど、所詮、ただ私が面白い読み物を楽しんでいるだけでもある。

そして、面白いから、万が一このページにたどり着いてしまった誰かに共有出来たら幸いだ、そんな軽い気持ちでここに、宛先のない手紙のようなものを綴ってみる。

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