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古今東西エロオヤジ

昭和43年から続く大野見の広報誌に編まれている、
「村ざかい物語-大股の巻-」。
物語の舞台の大股は、旧大野見村最北に位置し、沈下橋がかかる地域である。

大股の朝の風景
大股・高樋の沈下橋

大股の北の果ては高樋の部落であり、ここが村ざかいである。

この高樋の山に、山神皇神社が鎮座まします。
さんしんおう神社とよぶ。
山の神様で、祭神は大山紙(おおやまずみ)の命(みこと)である。

記録によると元禄六年(1693年)の勧請とあるが、これより百年前の天正地検帳(1588年)にその名が見えるので、この宮は四百年前に既に建てられていた事が分かる。

さてこの神社には村内はおろか、近傍にも無いものが二つある。
それは女人禁制のとほとんど直角にも等しい立派な石段である。
これについて次のような話がある。

そのやさしさ、嘘かまことか

頃は明治の中頃、維新から二十年以上経っていた。

この当時、高樋の女性の間で、誰言うともなく、「あの山の上にある山の神社に私たちもお参りしたい。山仕事に行く夫の無事も祈りたい。秋のみのりを神様にお礼も申しあげたい」と言うようになった。

こうした声はやがて大きな渦巻きとなり、遂に高樋の総代もこの女性たちの願いを断ることは出来なくなった。この総代はもう70歳に近く、温厚なうえにまことに頓智の利く人物で人望も厚かった。

高樋の女たちを集め、「皆の言うのは無理もない。 目と鼻との間の山の神にお参りしたいのが本当だ。こんな差別もうやめよう。しかし今は石段造りの最中だ。これが出来上がったら皆に登って貰う」と言う。

さて、それからしばらくたって、石段も出来上がり、待ちに待った落成式の日がやってきた。

総代は「さあ皆の衆、石段はこのように見事に出来上がった。 今日は約束通りご婦人に一番先に登って貰う。さあ登ったり、登ったり」

「まあー、うれしい」 と元気な高樋の女たち四、五人が我先にと登り始めた。

「おーの、きつい、これは手をついて登らんと登れんねえ」と四つんばいいになって登って行った。

しばらく登ってふと気が神付くと、誰も後から登って来る者もなく、急に水を打ったように静かになっていた。ふっと下を見て、あっと驚いた!


そこには高樋中の男という男の目が自分達のある一点を見つめているではないか。その目のなんとうれしそうで、口元のなんとたるんでいる事よ。

登りかけた女性は一瞬で気が付いたが、時、既に遅し。手を石段からはずせば下に真っ逆さま。

その上当時の大野見の女性は、「おこし」とよばれる一枚の赤い布のみ、ズロースがはかれるようになるのは、これから何十年か後の終戦後からである。

女人禁制の掟

さてその夜の落成式の宴会はいやが上にも盛り上がった。昼間の興奮さめやらぬ男たちは「総代さん、まっこと今日は、ええ落成式じゃった。観音様のご本尊を、まともに拝ましてくださって、わしはこれで十年の長生きが出来る」と、手をとって喜ぶ者。
「石段造りはきつかったが、今日の事で疲れはいっぺんに消えてしもうた」と総代に感謝する者。

一方女性軍。
「もうお宮参りはこりごり。頼まれてもいやじゃ」と言う者等等。

やがて飲む程に、酔う程に一同は、「よさこい」の大合唱となった。
誰がつくったか、その夜のよさこい節の歌

いうたち いかんちや おらんくの段は 奥の院まで丸見えじゃ
石段上がるのを 下から見れば 大工の墨壺逆に見える よさこいよさこい

これによって女人禁制の掟は長く守られ、終戦まで続けられる。
晩秋の一日、筆者もこの山の神様にお参りに行った。今は立派なバイパスがつき、楽々と登れる。

また境内にある男女和合の木源を示す自然石も拝む事が出来る。是非一度この山神皇神社に参拝を願って筆をおく。

あな(穴) かしこ

【出典】
1994年1月 第334号 広報 大野見
(発行 大野見教育委員会/編集 大野見村広報委員会)


【考察】舐められるなかれ、女子たちよ

ご安心いただきたい。
物語の初めに「まったくの創作であり、伝説でもある」と注釈がある。
とはいえ、この話は当時の広報誌一面を埋めている。
女性が性的対象として娯楽消費されることは特別ではなかったと想像する。
「ふふっ」と笑える小話に見えて、田舎における女性の立場の低さを如実に表していてため息が出る。

この話が掲載された1994年、大野見村の女子たちはこの話をどう読んでいたのだろうか。
舐められるなかれ、女子たちよ。


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