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労働の意義

今日11月23日は勤労感謝の日である。私も社会人として企業で労働を始めてから早3年以上が経過し、来年で4年になろうとしている。近年労働に関する環境は悪化の一途をたどっており、最近では1日7時間労働への負担を訴える声も上がっている。改めて労働の意義を振り返ることにより、これからの労働と自らの人生を見つめなおすきっかけにしようと思う。なお、ここでは日本の現在の経済状況や、パワハラなどの社会問題に関することは取り上げず、または生活保護などの救済策を考慮しないものとする。


労働とは

 原始時代などの獲得経済が主流であった頃には、採集や狩猟など食料を確保する活動は生きるために必要な行為であった。確保した食料や資源はそのまま自分の所有物になった。(諸説あり)そのため、生きること=採集狩猟という構図が成り立っていたのである。
 時代は下り、農業が出来上がり生産経済の世の中になると生産行為は一人ですべてを完結させることは難しく、ある程度多くの生産量を確保するためにはチームワークで活動する必要ができた。またその生産物はそのチーム内の共有資産として扱い、その活動報酬として配分されていたであろう。このことこそが現代において労働と称される行為になっていった。さらにチーム内でリーダーやまとめ役のような人物が現れ、その人物を中心に生産物の配分が進んだ結果、支配階級と労働者階級の区別が出来上がったとされる。
 このような生産活動を労働という言葉で表現するのは近代以降とされており、いつの時代においても労働の行為はいつでも何かしらの意味づけがされることがあった。労働の意義とは、その時代の歴史や世界観を常に表していたのである。

勤労の義務

 現在、日本においては日本国憲法第27条第1項において、勤労の義務が規定されている

すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。 

日本国憲法第27条

このように、憲法や基本法などで勤労を国民の義務として定義している国家は非常に少なく、民主主義・資本主義を謳う国家では日本と韓国の2カ国に限られるという。もちろん日本は民主主義国家であるため、この憲法に違反し勤労をしなかったからと言って罰せられることはないし、不労行為を禁止する法律もほとんど存在しない。(そもそも憲法自体が国民一人一人を規制対象としているわけではない。)
 この憲法規定についてはGHQ憲法草案にも記載はあったが、実際にこれを憲法に盛り込むことは日本社会党やマルクス主義憲法学者などの意見が強く反映されたとされる。
 社会主義・共産主義国家においては、労働は上記の日本国憲法よりも強く記載されており、場合によっては処罰されることもある。
 ソビエト社会主義共和国連邦憲法には第12条においてその規定がある。

ソ同盟においては、労働は、『働かざる者は食うべからず』の原則によって、労働能力あるすべての市民の義務であり、名誉である。

ソビエト社会主義共和国連邦憲法第12条

 この「働かざる者は食うべからず」というキーワードは社会主義者でなくとも非常に広く浸透しているキーワードであり、これを労働の意義としている者も多いのではないだろうか。また後段の”労働は~すべての市民の義務であり、名誉である。”という記載はいままでの資本主義国家にはなかった視点であり、労働をすることによって社会に対して何らかの働きかけをすることは善いことであり、それは讃えられるべきであるとする考え方である。

労働は苦痛か

 フリー百科事典Wikipediaには以下のような記述がある。

資本主義社会では、労働は倫理的性格の活動ではなく、労働者の生存を維持するために止むを得ず行われる苦痛に満ちたもの、と考えられるようになった。マルクス主義においては「資本主義社会では、生産手段を持たない多くの人々(=労働者階級)は自らの労働力を商品として売らざるを得ず、生産過程に投入されて剰余価値を生み出すため生産手段の所有者(=資本家階級)に搾取されることになる」と説明されるようになった。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 「労働者の生存を維持するために止むを得ず行われる苦痛に満ちたもの」という記述に関しては、共感できる人も多いのではないだろうか。実際に9時~18時までの勤務を行なうためには朝6時か場合によっては5時台より朝食を食べたりメイクをするなどの準備を行なわなければならず、通勤時間によってはまだ外が暗いうちから出発しなければならないといったところである。また18時に終業したとしても、そこから帰るにはまた30分や場合によっては1時間以上も電車に乗車して帰宅したら19時や20時になっている。その後夕食や風呂などで睡眠できる時間は最大で8時間以下であろう。就業時間中を考慮しなかったとしてもこれが苦痛でないならば何なのかという話である。
 今年アメリカのTikTokerが7時間労働が苦痛であるという意見をアップしてさまざまな意見がでた。7時間労働は日本では主流かあるいは8時間のほうが多いぐらいであるし、それにプラス残業まで入れるとそれ以上働いていることになる。しかし、人間の根底にはその時間働くのは苦痛であり、自分の時間をもっと取りたいという欲求も存在することは事実なのだ。しかし、このアメリカ人の意見には「7時間はまだ早いほう」「辛いならやめればいい」といった反論が多数出された。
 もちろん労働が苦痛ではないという意見もあることはまた事実である。自分がやりたかった仕事でそれをすることで生きるモチベーションを上げることができる。いわゆる「やりがい」というものである。また社会をより改善することができる、最終的に自分の地位を上げることができるなどがあるだろう。

労働の意義

 ここまであまり触れなかったが、労働の対価は賃金である。人はみな賃金を得るために労働をしているのであり、先述のやりがいや自分の地位の向上はその副産物と言っても過言ではない。労働の意義とは賃金をもらい、いま生きる人生をより向上させるのが目的である。
 しかし、前項の平日の生活を見てみると、賃金をもらったからと言って生活が向上したかと言われたらそうではない。可処分時間の減少や通勤などのストレスが蓄積し、逆に生活の質は低下していく一方である。特に一人暮らしの人間においては、賃金をもらうことで守るべき家族や家のローンを払うなどのことがないため、余計に賃金をもらうだけが労働の意義ということからはかけ離れていくのである。これは労働そのものがその意義からは本末転倒な行為と言わざるを得ないだろう。
 前項の7時間労働限界論を訴えたアメリカ人に対する意見や他の意見にもある「辛いならやめればいい」「労働するもしないも自由」という意見はここでは通じない。なぜなら労働で賃金を得ることは生活を維持、もしくは食料を最低限確保するための必要条件であって十分条件ではないからだ。ここまでくると現代において労働とは義務ではなく、必然・規定事項化しているところがある。

労働の本当の意義

 現代、AI技術の発達によって仕事が失われる職種が問題となっている。特にイラストレーターや文章、さらに広告などのクリエイターなどは生成AIに置き換えられ、また労務管理や経理、総務なども人員を削減することが可能であるとされる。
 生成AIが広まる直前に、「AI技術が発達し仕事を失うことがあっても、それは食い扶ちを失うのではなく人間にとって余裕が生まれ、余暇の時間ができる」という意見があった。この余暇の時間ということをどのように解釈するかは難しいところではあるが、少なくとも技術の向上による仕事の減少で、働かなくても良くなるということではないだろうか。
 しかしこれは否定せざるを得ないだろうし、たぶん将来はそうならない。
 なぜなら、国家の一員としては、労働の本当の意義とは賃金を得る以上に自分の意思とは関係なく社会を動かし維持している義務が課せられていると考えられるからである。それは納税も同様である。
 仮に国民全員が7時間労働限界論を訴え、一斉に会社を辞めるとする。そうすれば納税をするものが誰もいなくなり、国の財政は破綻する。その前に社会を維持できなくなり、国の経済や治安などは崩壊するであろう。国家はそれを防ぐために適度に労働に必然性を持たせる必要がある。また税金などの負担を適度に維持することにより、国民に緊張感を持たせ過剰に仕事をやめ労働力が減少するのを抑えることが重要と考えられる。国民は納税や会社での労働などのさまざまな方法によって国の経済や社会活動を維持していく義務を課せられている。
 この意義があるとするならば、果たして労働を苦痛の行為とするのだろうか。また労働を苦痛とする意見に対してそれに対する批判を当然のように受けるべきなのだろうか。
 前項の通り、労働を苦痛とするかしないかという意見は人によって分かれるところだろう。十分な賃金を得ていたり、それ以上の名声があるのならば労働は苦痛ではない。しかし、その前提があったとしても労働は苦痛であるという意見は否定することはできないし、それを理解した上でそれを改善するにはどうすればいいのか、効率を上げるにはどうするかといった議論を進めていくべきと考えられる。


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