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村田沙耶香『コンビニ人間』を読んで

『コンビニ人間』は2016年に芥川賞を受賞した、村田沙耶香の純文学である。

主人公は18歳~36歳まで18年間も(!)コンビニでアルバイトを続けている変わり者で、何らかの精神障害(発達障害?)を持っているかのように描かれている。

しかし、この作品は、そうした一編とおりの読み方だけでなく、多様な角度から楽しむことができる良作である。

学校教育と『コンビニ人間』

主人公の女性・古倉は、子供のころから奇妙な言動が多く、家族や友人を困らせることが多かった。いつしか「普通にならねば」「治さなきゃ」と思いつめ、個性を殺して生きるようになってしまった。
大学生のとき、コンビニのアルバイトに出会ったことで人生が変わる。声の出し方・挨拶の仕方から、笑顔の作り方まで、コンビニにはマニュアルが存在しており、古倉は初めて「普通の人のふるまい」を獲得することができた。
しかし、個性を殺して世の中の標準に合わせようとしすぎたことによる弊害が、段々と生じてくる。
古倉は大学卒業後も正社員として就職せず、コンビニのバイトを続けた。時には転職を考えたこともあったが、面接の場で「何故、ずっとコンビニバイトを続けていたのか?」を上手く説明することができず、結局、採用されなかった。
古倉は、マニュアルに沿って自分を律することはできる人間だ。バイトとしての働きぶりは真面目で、サボることはない。しかし明確なマニュアルのない「就職/転職」という場で、どうやって自分を律したらいいのかが理解できない。

学生時代に「個性」を殺して生きてきた人間が、就職の場で「自発性」を求められて苦悩する。――これは障害持ちであると否とにかかわらず、現代の多くの就活生が共感できる苦悩ではないだろうか。

思えば、「就職面接」というのは奇妙な場である。
就職面接には、一から十まで教えてくれるマニュアルは存在しない。各個人の過去の経歴(=個性)に合わせて、話す内容をオーダーメイドする必要がある。しかし、100%自由奔放な「個性」が求められているわけでもない。企業が必要としているのは、基本的には上司・先輩の指示を素直に受け取りつつ、それでいながら自分の考えをもって「マニュアル人間」以上の行動をとれる人材である。「普通」に合わせる必要があるが、ただ「普通」であるだけではダメ、という絶妙なバランス感覚が要求される。
面接の場では、世のなかの「普通」に合わせられることを証明するために、自分独自の経歴(=個性)にからめたオリジナルエピソードを披露する、というアクロバットなことが要求される。

このことを、変だ、異常だと感じない(あるいは、感じても程々にやり過ごせる)のが、健常者の感覚なのだろう。古倉のような人間には、この矛盾を乗り越えることができない。

階層社会と『コンビニ人間』

古倉のことを、まるで無能な「マニュアル人間」かのように紹介してしまったが、実際には彼女の働きぶりは実に優秀である。
ラストシーンでは、自分が勤めていたのとは違うコンビニに立ち寄った際に、棚の並びが不十分であることに気づき、店員ではないのに並べ替えを始めてしまう。その店舗のバイトは、古倉のことを本部から来たスタッフだと勘違いし、テキパキした鋭い指示出しに感嘆してしまう。

古倉が身につけている「内装整理術」も、元をたどればいつの日か誰かから教えられたマニュアルなのかもしれない(本文で言及はない)。しかし、教育を受けたとしてもそれを十分に完遂できるバイトは、世のなかにそう多くない。古倉は、表面的なマニュアルに沿ってイヤイヤ行動しているわけではなく、マニュアルを己の血肉として結晶化しており、自発的に改善提案をとることができる。
彼女の仕事は、一種の「職人芸」である。前日~今日にかけての天気、近くに立地している店舗、競合他社の商品発売状況など、さまざまな事情を考慮して、最も売れ行きがよくなる戦略を即座に立てることができる。

これが「コンビニ業界」でなかったら、古倉さんは立派な「キャリアウーマン」として世間から認められていたはずである。彼女の「クセの強さ」も、エリート街道を歩むキャリアウーマンならではの個性として、おそらく周囲から受け入れられていたはずである。
あるいは、陶芸家や画家のような「職人」の道を歩んでいたなら、それはそれで認められていたかもしれない。彼女の一途さ、コンビニ以外のことに興味をもたない没頭ぶりも、おそらく世間から尊敬の眼差しを受けていたはずである。
しかし不幸なことに、彼女にとって適性のある仕事は「平成時代のコンビニスタッフ」であった。どれだけ情熱を注いでも、一人のアルバイター以上の評価を受けることはない。彼女のようなバイトがいたから、そのコンビニは日々の売上を保つことが出来たのだが、しかし最初からその努力を評価する仕組みなど存在しない。バイトはあくまでバイトに過ぎない。
コンビニ本社の幹部スタッフとして店舗の出店計画を練る――といった、マクロなビジネスに関わる人しか、世のなかで「ビジネスマン」として評価されることはない。

「職業に貴賤はない」――とよくいうが、現実には、職業によって貴賤はある。古倉さんが18年間もバイトを続け、友人からもバイト仲間からも内心引かれているのは、彼女だけが悪いのだろうか?
「もしも、コンビニ業界が世間から尊敬を集める業界だったら」….というパラレルワールドを想像してみると、彼女の生き方は優秀なキャリアウーマンのものとして、全て腑に落ちていく。恋愛経験がないことも、結婚を考えていないことも、すべて周囲の理解を得られ、なんなら尊敬の眼差しまで受けていそうだ。ほんの少し、この世界の何かが違えば、彼女の評価はガラリと変わっていそうな気がするのだ。


人格構築と『コンビニ人間』

この作品の登場人物たちは、互いが互いに影響を与え、徐々に行動・性格が変化している。

佐々木さんは泉さんが入ってきてから、「お疲れさまです!」の言い方が泉さんそっくりになっていた。(略)私の喋り方も、誰かに伝染しているのかもしれない。こうして伝染し合いながら、私たちは人間であることを保ち続けているのだと思う。

物語前半に登場するこの一節は、ついつい「そうだよね、私たちって影響しあって生きているよね」と素直に共感してしまいそうになる。しかし、読み進めるに従って、読者の単純な共感は裏切られる。

「自然に」影響されあっている他の登場人物と違って、主人公・古倉は「意図的に」他人の色に染まろうと努めている。
古倉は、バイト仲間の女性がもっている鞄や靴のブランドをこっそり調べて、同じブランドの違う商品を買い求める。
また、バイト仲間が何かに怒っているときには同調して怒りを口にするが、自ら愚痴をいうことはない。ある時、バイト仲間の菅原さんにこう言われてしまう。

「(略)でも古倉さんって、ほら、私や泉さんに合わせて怒ってくれることはあるけど、基本的にあんまり自分から文句言ったりしないじゃないですか。嫌な新人に怒ってるところ、見たことないですよね」
ぎくりとした。
お前は偽物だと言い当てられた気がして、私は慌てて表情を取り繕った。

このシーンは、太宰治『人間失格』の「ワザ。ワザ」にも通じる、怖ろしいシーンであると思う。

『コンビニ人間』に限らず、村田沙耶香の小説の主人公は「他人をまねて」自我を構築しようと努めていることが多い。古倉のばあい、子供時代に奇矯な振る舞いをしてしまい「普通にならねば」「治さなきゃ」と思い詰めたのが一因だろう。だから、バイト仲間に自分よりも「普通」そうな人を見つけると、その喋り方・服装などを取り入れてしまう。そして、一人の人だけを真似るのではなく、色んな人の個性をミックスして取り入れることで、できるだけ平均化・標準化しようと努めている。
しかし、お仕着せのモノマネでは何時しかメッキが剥げてしまうのか、家族や友人からは「元々そんな喋り方だっけ?」という怪訝な反応をされてしまう。
「普通」に近づきたくて他人の「個性」を取り入れたのに、それは「普通」とも「個性」とも認められることなく、「なにか変な状態」としか見られないという悲劇が発生している。

人間は、一人一人異なる「個性」をもっていて、その個性が適切に・不快にならない形式でアウトプットされている時に、周りから「普通」であると見なされる。
「個性をもっているが、それゆえに普通」という逆説は、就職面接で求められているものと同型である。就職面接になぞらえた先述のわたしの解説には、共感する人もそれなりにいたのではないかと思う。しかし、日常生活の喋り方や服装の話にまで敷衍してくると、徐々に理解できない人の数が増えてくるのではないだろうか。「この主人公は何を考えているのか分からない。怖ろしい」という反応はごく一般的に見られるものだ。
「就職面接をめぐる逆説」から「日常生活での人格構成をめぐる逆説」へと至るグラデーションの途中のどこかに、健常者とそうでない者の境界線があるのだろう。


物語後半で、バイト仲間たちが「古倉さんに彼氏ができた」と勘違いするくだりがある。彼らは裏側の控え室で、古倉から詳しい話を聞き出そうとする。しかし、古倉はわずわらしいので無視する。
恥ずかしがっているのではない。「コンビニ人間」ではない「素の自分」が求められることに困惑しているのだ。勤務時間中には「没個性的なコンビニ人間」であることが評価されるのに、一転して休憩時間になると「個性をもった一人の人間」であることが評価される。このギャップに古倉は気持ち悪さを覚える。
「適切な表裏の使い分け」をできる人間が「普通」の人間として、世間から歓迎される。しかし、古倉には、素の自分が「ない」のだ。素の自分が存在しないからこそ、他人の服装や喋り方を意図的に模倣しなければならない。
しかし、模倣したつもりでも「大学を卒業したら正社員として就職するのが普通」「適齢期のうちに結婚しようとするのが普通」という感情・思想の部分までは模倣することができなかった。
古倉は、基本的に他人に興味がない。興味がないからこそ「自然に」他人の影響を受けることがなく「意図的に」模倣することしかできない。そして、表面的な喋り方・服装は模倣することができても、人生観の深い根の部分まではインストールすることができない。古倉は決して一人ボッチではなく、昔からの女友達と時々会って談笑している。友達のなかには結婚したり、子供を持った者もいる。しかしそれでも、古倉の人生観が変化することはない。他人への興味がうすい古倉は、喋り方や服装は真似ることができても、就職観・結婚観・人生観などをインストールすることができない。


……古倉には「素の自分」がない、と書いてしまったが、まったく感情がない訳ではない。朝バイトをしているとき「コンビニの中に『朝』が入ってくる」….と詩的なことを感じる感情はあるのだ。あるいは、コンビニ全体の空気が一つの生き物のように波打っている快感を感じることはあるのだ(村田沙耶香の小説には、部屋全体の空気が一体となって脈動している描写がよく登場する)。
古倉は決して、ロボット人間ではない。ある意味では、詩的な人間ですらある。しかし、彼氏が出来たとか出来ないとかそんな話で盛り上がるような、他人と分かりやすくつながる回路はもっていないのだ。他人に呈示しやすい、分かりやすい「素の自分」は持っていない。

世のなかで「普通」と認められるためには、「自分のなかに『個性』があって、しかも、それが世間全体の大きな『普通』に接続する必要がある」という逆説が、ここにもまた登場する。
「彼氏がほしい」とか「別にほしくない」とかいう『個性』を自分のなかに持った上で、それを世のなかの「恋愛に関する話題」という大きな『普通』に接続しなければいけない。その回路をもっていない人間は「普通」ではないと見なされるのだ。


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