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悪党と善人      


そもそも悪は善より感じが深刻です。善というものは生命の発展に従うものですから、柔順な感じです。刺激がない。素直です。悪というものは生命の本流に抗するもの、逆行するものですから、どうしても感じが強く、身にこたえます。薬でも本当の良薬は生命を助長して副作用がない。効果も遅い。病の局所攻撃をする即効薬というものは、刺激が強く、副作用もひどい。まして毒薬ではたまりません。およそ人々は善に対してはあまり感じません。悪に対して非常に強く感じます。人間も概して悪人は強い。善人は弱い。

安岡正篤


最近人と争う事がない。自分が変われば周りが変わる、と言う事実を実感している。

そういう事を、上記のこの編で述べた。

子供の頃から我慢強い私だが、思考、解釈を変え、自分を変えるに至るまで、一番苦しかった。

さて話は、私がこれから建てる自社ビルの話の続編である。

建築基準法も近隣対策も、私の一流の一級建築士が誠実に行い、充分に満たしている。

それでも悪党というのは必ず表れる。

ご近所のビルの賃貸管理する悪徳不動産が、これをお金にしようとした経緯を、差し障りがない程度で、下記に記す。




まず、このビルを管理する悪徳不動産屋が、市の建築指導課に、滅茶苦茶なクレームをつけた。

建築指導課は、それは何の問題もない、と当然答えた。

建築士に「こう言う苦情が来てますが、法的に何の問題もないですよ」と、市から報告があったのが、数ヶ月前。

私は、それでも市に電話をした。

「法律ではなくお互いお会いして、歩み寄れる事は歩み寄りたい。そう伝えてください」。そう言った。

まさかという坂は多くあるが、建築指導課にそういった私の言葉を聞いた悪徳不動産は「それではご厚意に甘えて会いましょう」と言ってきた。

これが今回の事の発端である。

多くの不動産会社の社長達から「そんなの相手にしたら、ロクな事が無いからやめろ。恐ろしい事に絶対なる」。

そう散々叱られ、アドバイスを煩いほど頂いた。こういう人達を、善という。

しかしその警告を聞かず、自らお会いした。
何とかならないか?
私はこんなバカでお人好しでいい。

ここから嘘の様な、考えられない事が起きる。

ご近所にあるビルのオーナーは、聖職者で本当に素敵で高貴なご夫妻だった。

こんな方が所有するビルとご近所さんになる事を知った私は、いい意味で、色んな発想が浮かんだ。

まず、ジムの子供の授業に近隣掃除を入れる。

次に、今行うYANAGIHARAホールディングスの、パトロール活動を2班に分け、新しい自社ビル付近のパトロールも強化する。

こう言う事を考え、高貴なご夫妻に伝えると物凄く喜んでくれた。

しかしそんな素敵なオーナーご夫妻を利用し、更にこういう提案をした私に、この不動産屋は、暗にお金をせびる作戦に出た。

多分、私との2回に渡る折衝で「こいつはお人好しだ。じゃあこいつと、今管理してるビルオーナーを食おう」。

詳細は省くが、私は伊達にチャクラが7個も開いてるわけではないので、この不動産屋が我々に何を望んでるか?

実は最初の折衝の、一時間話して本当はわかった。
この不動産屋が望んでいるのは、「謂れもないお金」である。

紆余曲折を経て、いみじくも先日。

この不動産屋が私を食い物にするのはいい。
しかし、この事案でかなりの人を巻き込み、嘘をつきお金にしようとしてる事が毎日の様、私の耳に入る。

そして、三度目の交渉となるのだが、私はこの悪徳不動産屋に、乗り込んだ。

高貴で素敵なご近所のビルオーナーを食い物にしている。ついでに返す刀で私も、というストーリーの全ての裏をとったからだ。

上記にある、安岡正篤先生が説く通り、悪党は強い。
何故なら目先のお金を追うから、徳や義を考えない。

だから恥を知らない。
これはある意味強い。

私はこういう輩を相手に常に争い潰し、生き甲斐にしてきた。
だが、それは徳とは言わぬと知り、東洋哲学を追求した。

だから今回、何故そこまで譲歩しなければならないのか?
そう言われる事も、全て譲歩した。

しかし私は、絶対に悪党にお金は出さない。

お金とは人との信義に則り稼いだ物であり、貧しく正しく弱い人に使うツールである、というのが私の考えである。

二匹目のドジョウを探す輩を助ける程、私はバカではない。

そう言えば、2年ほど前、所轄の警察署の捜査2課が、私にこう言った。
「柳原さんのところは警察より機動力がすごい」。

故に北九州のCIAと言われる。

そう笑って言う人は皆、私の行動をよく知り見てくれている。

柳原は、その力を善にしか使わない、と知るので頼りにしてくれる。時には叱ってくれる人もいる。本当にありがたい。

だから私は、裁判所でも何処の誰が出て来ても、今回の件は不動産屋が悪であり、利、しか頭にない輩だと堂々と言える。

そうして悪徳不動産に乗り込んだ私は、この男の弱い人を食い物にする行為を正しに、約1時間話し合った。

悪党は聞いてもない事をよく喋る。

散々喋らせた後、一つ一つの事実や裏付けを突きつけると、すぐ謝り、人のせいにする。

人のせいにした言葉も嘘で、直接聞いた事実や情報を、私は最後の最後に出す。

するとまた嘘をつく。こんないたちごっこが1時間続いた。

政治も警察も司法も介入できぬ、こういう悪は、やはり誰かが正せばならない。

仮にこの悪を潰すとすれば、正直一ヶ月でできる。
しかし潰す、と、正す、は違う。

私の目的は、この悪が反省すべきだ、という揺るぎない気持ちで行ったので、嘘を徹底追求しなかった。

それは弁護士や、警察、検察の仕事だ。

また続編を書くと思うが、帰り時なに私は「貴方、儒教くらい勉強した方がいいですよ」と言った。

目をまん丸にして、狼狽えるたのを私は見逃さなかった。

「あなたのやる事は、全てが、利の上に成り立っている。徳がなく利だけを得ようとしている。」

「本来、悪くもない柳原さんの所に行きたくない、というオーナー夫妻に、貴方は嘘泣きをしろと言った。そこに義はない、という事が分からないか」。

そう言っても悪党は懲りず、こう反論した。

「私は情に訴えろと言ったんです」。

私は心から、情けなくなり、こう言った。

「情に訴えるのと、嘘泣きをしろ、と言う事は違うではないか。お金のために、人に嘘泣きをさせる貴方に大義はない事を知れ」。

「私は義であるから過去、反社ともテロ団体とも、堂々と真正面から喧嘩をしてきた。義のない貴方には出来ない事だ」。

そう言うと、まるでヘビに睨まれた蛙が、死んで腐った目をした。

私のストレートな言葉に対し、最後にこの男はこう言った。

「柳原さんの言う事は素晴らしいけど、お金にならないじゃないですか?」。

これを語るに落ちる、と言う。
訴訟や刑事事件では、これを自白と言う。

私も、高貴なご夫妻もお金を求めていない。

悪党は安岡正篤氏が言う通り、この様に強い。

強いと言う意味は、つまり上記で書いた理由から強いのであり、安岡先生の言葉は、決して悪党に対する褒め言葉では断じてない。

今後私の行う事は2つ。

自分の考えが絶対だと思わず、常に何が正義か。そこに私欲がないか、と自分の足元を常に見直す。

そして世の善人が強くなる為に、少なくとも北九州は私がそうなるように先頭に立ち、変えてみせる。

こんな事を書いている今、ある金融機関からこのビルに関しての、あり得ないプレゼントが来た。

小説にすると嘘だ!と思われる様な、すごいタイミングだった。

こう言うのを正しい利、と言うのかと体験した。

善は弱い。
悪と戦うのは怖い。

しかし幸いにも独身で、何度も死を見た私は、怖いと思わぬ。

だからYANAGIHARAホールディングスは、正しい善を、徳と攻という正しい「力」を使い、弱者を助けるグループにした。

この悪徳不動産屋を潰す事は、悪いが簡単だが、善ではない。
悪徳不動産屋が、少しでも変わってくれる事が善である。

亡き安倍元総理の様、人間の価値は、亡くなってから善行が出てきて決まる。

国政に興味はないが、生きてる時の自分の善行を語らぬ。

だから今になって、その行為が当たり前だと思い行なった、安倍さんの善行が多く出てくるのか、と感動した。

徳を積むということは、決して難しい事ではない。
しかし教える者がいないから、難しくなる。

教えるという事は自分も教えられるのであり、教える者が偉い、という事にはならない。

そういう思考と行動は、特にこれからの世代と共に、教えながら考えたい事である。

安倍さんの国葬は、税金の問題だから駄目だ、と綺麗事を言う政治家がいる。

これは清濁の意味を知らない。別に反対意見を否定はしない。

しかし政治家は清濁合わせ飲まぬと、悪しきファシズムとなり、その前に何も前に進まない。

そして商売をしてる人は、お客様を幸せにする為にあるので、正しい徳と義、利を考えるべき時代にきてることを、再考してほしい。

少年は大志を抱き、悪党は恥を反省する志を抱くべきだ。

そういう心が、日本の精神だった筈だ。

悪党と善人②/安岡正篤

だから世の善人と悪人とをくらべてごらんなさい。
善人はたいてい引込み思案、消極的で、傍観的であり、団結しない。
自然の草木と同じように自ら生きる。
他に待たないものです。
悪人は猛々しく深刻で、攻撃的積極的であり、必要に応じてよく団結します。
私は昔からいろいろの機会に力説してきましたが、悪人は一人でも「悪党」と言います。
それじゃ善人をさして彼は「善党」だとは言いません。
悪党という語があっても善党という言葉は使わない。
だから悪党と善人では一応善人側が負けるものです。

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つまりそう言うことである。

だから一応は負けても、最後は善が最後は勝ちなさい、と説いている。私はそう解釈する。

そして私は諦めない。



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