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【ストロングゼロ映画ヒヒョー#1】 『帰ってきたヒトラー』が見せる第三の現実に酔いも覚める

最初に取り上げる映画は『帰ってきたヒトラー(2015年ドイツ)』

ドイツでベストセラーになった風刺小説の映画化作品だそうです。Amazonプライムで無料でした。

大まかなあらすじは、すごくわかりやすくて、ヒトラーが現代にタイムスリップして、そんな彼が、得意の弁舌や民衆へのアプローチによって、テレビやネットの力で大人気者になるというエンタメ感の強いもの。

その過程で描かれる、対話に際に相手の話に合わせる所や演説で沈黙を使い、聴衆の興味を引く所などは、さすがドイツというだけあって、実にヒトラーの手法に忠実だったので、ただのエンタメではない所を感じさせます。

そもそも、この映画は我々日本人にはわかりにくいドイツや欧州のタブーに触れる映画でもある。タブーというのは、ヒトラーそのものなんですが。

実はあの有名な『ヒトラー 最後の十二日間』のブルーノ・ガンツ(あの「おっぱいぷるんぷるん」で有名な映画です)が演じるまで、ドイツ系の役者がヒトラーを演じることがなかった。
最近になってようやくナチスを映画やエンタメの中で扱ってよい、という方向になったくらいかつてはタブーだった。

それでも、あらゆる映画・小説・ゲームの敵役としてはナチスやヒトラーというのは、かなり強固な装置として機能するので、そのままの登場はもちろん、似た存在でよく見かけるので、日本人からすると、あそうなん? くらいにしか思えなかったりする。
いまでも、街中やスポーツの舞台で、ナチス式敬礼をすると、その人には社会的制裁が与えられるくらいの欧州の忌むべき記憶である。

その経緯を知っていると、この映画がただのエンタメではなく、とてつもなく際どいものだと思える。
特に、映画の随所に挟まるドキュメンタリー的なシークエンスがそれを際立たせている。

映画の中で、ヒトラーは様々な地方の町の人々や政治的立場の人々と対話する。実はこれは本当にアドリブ的に街に出て撮影されたらしい。
そこで観せられる映像は、ただ話しているだけにも関わらず、ものすごい危うさを感じさせる。
彼に移民に対する不満を言う店舗経営者や、ヒトラーに同調を見せる極右政党の支持者との対話などを観たあとだと、一緒にセルフィーを撮る若者すら、危うく見える。

そうしてやがて、これが映画ではなく、ある種の社会実験のようにすら思えてくる。最初はただのエンタメ映画だと思っていたものが、何か別の姿をしていることを知るようになる。

政治的問題とタブーを、一切茶化すことなく、タブーをタブーとして扱いながら、それでいてエンターテイメントに昇華している映画なのだと。

日本でこういう映画を撮るほどの細かい思慮やセンスを持った人はいるのだろうか。ちょっとよくわからない。少なくとも、日本は政治的な映画でエンタメは出来ないだろうなとは思った。しかもコメディで。

実はいま、アメリカ映画のほとんどが、スーパーヒーローかノンフィクションを題材にした映画である。
そのどちらとも、ハリウッド流のよく出来たメソッドの上で製作されるので、一流の作品になっていることは多い。
ただ、『帰ってきたヒトラー』のように、リアルとフィクションの間を行き来するような映画は少ないと思う。スーパーヒーローもノンフィクションも、どちらも良く出来たフィクションなのだ。
それは、スクリーンという強固な壁の向こうで行われている何かであって、現実に侵食してくる何かではない。
もし、ハリウッドに対抗しようとするなら、『帰ってきたヒトラー』のような現実を侵食する〈第三の現実〉というべき作品を作らなければいけない気がする。

映画の中盤で、街の中で似顔絵の商売を始めたヒトラー(なにそれ? って感じですが)に、街のおじさんがそれを楽しむ町の人々やヒトラーに対して、反感の言葉を呟いたシーンがあった。もちろんこれはドキュメンタリーのシークエンスだ。
ヒトラーの格好でふざけた商売をしていること町の人々が黙っているのも許せないと言い、最後におじさんは言った。

「あんたを叩き出してやりたい」

おじさんが役者ではないという確証はないが、少なくとも現実にあり得る言葉だと思った。フィクションと現実が混淆した瞬間。映画が時折生み出す〈第三の現実〉が現れた素晴らしい瞬間だと思った。ストロングゼロの酔いだって、覚めてしまう。
そういう映画はあまりない。

ちなみに、映画のプロットもフィクションと現実を混ぜ合わせた中々の展開を見せるので、エンタメとして、安心して観られます。


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