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「できるだけ大量に正確な情報を収集する」が"正解"じゃない時も、それなりにある

2011年3月の俺は、混乱していた。

東日本大震災が起きた。中高の同級生は大半が社会に出ている年齢だったが、俺はまだ大学でグダグダしていたので、春休みだった。バイトしていた某官公庁のプロジェクトは、担当者が一人残らず震災対応に駆り出されてしまい凍結された。親は海外にいて、妹はたまたま彼氏の家にいた。恋人はいなかった。つまり俺は一人だった。

もはやあの頃の記憶が薄かったり、なかったりする人も珍しくないだろうけれど、3/11から数週間までの段階では、都内の放射線量がどれぐらいで、放射線量がどれぐらいだと何がどれぐらいヤバいのか、わかってる人は少なかった(はずだ。俺が図抜けてバカだったんじゃないことを祈りたい)。だからパーッと外に出る気にもなれなくて、やれることと言ったら徒歩1分のコンビニに軽い駆け足で行って食料を買って、それを食いながらテレビとネットを見ることぐらいだった。

何もしない、はできなかった。余計な思考のスキマがあると、不安と何もしていない後ろめたさとで気持ちが底に持っていかれそうだったから。繰り返しになるけど、立派な同級生たちは平日は社会と経済を回し、休日は仲間を募って被災地へボランティアに出かけたりなんかしていたのだ。

震災から10日ぐらいで、東京は急速に元に戻ろうとしていた。一刻も早く平時に戻ることが善かのような空気すらあった。俺は内心、日本社会全体として喪に服す時間が短すぎるんじゃないかとうっすら不満に思っていたが、それは俺が社会人じゃないがゆえの世間知らずかもしれなかったし、平時=春休み中の怠惰な高齢大学生に戻るのが嫌なだけかもしれないとも思ったので、言わずにおいた。

ただ、俺よりは幾分マシだったんだろうが、テレビもネットもまあまあ混乱していた。まあまあっていうのは遠慮した表現だ。各々の使命感と正義感だけは伝わってきたけど、何が正しいのかは結局わからなかった。安全な場所にいながら、もう1つの濁流に飲まれているようだった。あの時の混沌は、メディアやプラットフォームビジネスの世界に俺が引き寄せられ今も身をおいている理由の、全てではないけど大きな一部だろうと思う。


実感されづらいかもしれないが、今の情報環境はあの頃よりだいぶマシだ。市民は生データや最新の研究論文に直接アクセスしやすくなったし、専門家が自ら情報発信をするようにもなった。媒体の伝える技術や工夫は少しずつしかし確実に蓄積されているし、専門的な訓練や経験がなくてもプロ並みの発信をする人も増えた。デマや煽動は酷いものだが、それは9年前からあったし、「そういう輩が存在する」ことを社会が織り込むようになって、致命的に変な騒動は起きていない。

ただ、あまり変わっていないものがある。情報を受信する側の処理能力だ。

そもそも人は、情報を何の目的で摂取するのだろうか? より正確に事態を知るため? 妥当な意思決定をするため? 知らない人より優位に立つため? 色々あるだろうが、「安心するため」というのだけはあまりオススメしない。情報は本質的に、未知の世界への入り口を開き、新たな可能性を提示するものだ。選択肢が増えることは不確実性が増えることであり、不確実性が増えれば不安もまた増す。増加する情報量に対し人間の情報処理能力には限界があることを説いた『情報不安症』の初版が出たのは、もう30年以上前の話だ。不安で調べずにいられないって心理状態はある。気持ちはわかる。でも、その調べ物は、たぶん9割がた、あなたの不安の根っこを解決はしない。

もちろん、だからネットサーフィンを絶対に控えろ、なんてことを言うつもりはない。目的に適う情報収集は人生に有益だし、無目的に情報を貪るのもまた楽しいものだ。それは仕事を抜きにしても重度の情報ジャンキーである俺自身がよく知っている。未知の何かを既知に変えていくのは楽しい。存分にやればいい。世の中の不公正に怒るのも、悲しむのもいい。何かを変えようと声を上げるのもいい。最高だ。

あなたが元気な時なら。


元気じゃない時にする情報収集(と発信)は毒だ。それがどんな情報であろうと、基本的に毒だ。科学的、論理的に正しい情報はある。人を楽しく幸せにする情報もある。でも、情報を扱う主体のコンディションが悪ければ、その情報が本来果たすべき効用は果たされない。正しい情報はあるが、情報を扱う行為自体が正しくない時もある。ゴールポストの側が動くのだ。政治家やジャーナリストが公的な場でそれをやるのは困るが、一般大衆が個人的な空間でそうなる分には、誰も大して構いやしない。

そもそもこういう時期に情報を集めようとするのは、あなた自身や周囲の大切な人々を守るためであることが多いだろう。その目的に照らして必要な情報は、実は思うほど多くない。東京都における新型コロナウイルス感染者が絶対数、増加速度ともに増していっても、あなたが医療従事者や政策関与者じゃないならば、やることは昨日と変わらない。外出を控え、手洗いうがいと咳エチケットを徹底し、健康を意識した生活を続けることだ。

繰り返すが、元気な時なら、どれだけ情報収集しても、発信してもいい。何かを批判したり、誰かと議論したっていいだろう。平時だろうが有事だろうが、その人の立場がどうあろうが、思うことを口に出せない世界は不健全だ。でも、自分や周囲の人が元気でない時に、無理をしすぎないほうがいい。

好きに批判したり議論できたりする世界では、自分が批判されたり議論をふっかけられたりすることも受け入れられなくてはならない。さらに言えば、愛する人を守るために必死にモニターへ向かった結果、愛する人の表情が曇っているのを見抜けず、関係に亀裂が入る、そんな安い恋愛ドラマみたいなシチュエーションも、意外とその辺に落ちているものなのだ。

そもそも、こういう社会的不安が強い時には、あらゆる行為が思わぬストレスを生んでいる。今般のコロナ禍を受けて、諸事情から俺のタスクに最新状況の把握、そのための情報収集が加わったが、それがなんとかこなせているのも(手前味噌だが)各媒体やソーシャルメディアの動向をチェックするというケッタイな仕事を5年以上専門としてきたジョブトレーニングの成果にすぎない。そういう経験がない人が情報の洪水に飲まれれば、いかにそれが9年前よりきれいな流れになっているとしても、溺れるのは致し方のないことだ。ていうか、「俺はできてる」ってここで書きつつも、3、4日前はマジで心身キツかったんだから。ぶっ倒れるかと思った。

まとめよう。

・あなたが情報収集や発信をしている、もしくはせざるを得ない理由と目的を、いまいちど見直そう
・その理由や目的に関係が薄いことにこだわりすぎるのは、自分も、それを人に求めるのも、なるべくやめよう
・あなたの大切な人やあなた自身の顔色を気にしよう。その顔たちを笑顔にすることを優先させよう

さあ、また新しい1週間がはじまる。今回の危機は、残念ながら長期戦になりそうだ。今週がヤマかもしれないし、向こう1ヶ月かもしれないし、1年かもしれないし、それ以上かもしれない。まだゴールテープは見えていない。そういう時に大事なのは、体調と、メンタルヘルスと、前向きさだ。しぶとくやってこう。

情報はできるだけ無料であるべき、という思いを持っているので、全てのnoteは無料で公開予定です。それでも支援いただけるなら、自分と周囲の人の人生を豊かにするのに使います。