やすにいさん

濱野康二三 アルテヴィジョン(株) 代表。小説家を志望するも30才で断念。一念発起し講…

やすにいさん

濱野康二三 アルテヴィジョン(株) 代表。小説家を志望するも30才で断念。一念発起し講師の道へ。大手研修会社で2度の優秀賞の実績を引っ提げ勇躍起業!顧客に恵まれ8年間実績は右肩上がり。よっしゃと思った矢先、コロナ禍でまさかの経営危機。ここから再起を図る物語。何卒ご笑味を

最近の記事

私のペルソナの形成(少年期編④)

既に書いた通り、杉並区の東京第三学区。裕福な家庭で英才教育を受けた子供が多く、そのため全国屈指の高校受験激戦区。その杉並区の中学で一番になるなど、できるできない以前に創造の外の話であった。したがって塾長に「中学で一番に」と言われても、何か他人事のように受け止め、何と返答したかも覚えていない。 月日は経ち、中学一年の三学期、学年ごとの学力テストというものがあった。このころ私の成績は、通知表に並ぶ“5”で五目並べができるくらいになっていた。つまり学業成績は順調に伸びていっていた

    • 私のペルソナの形成(少年期編③)

      「努力が報われる」ということを感覚で理解することの意義は大きい。なぜなら、努力がそれほど苦痛ではなくなってくるからだ。人は希望を食べて生きる動物と言われる。したがって、同じ勉強でも「それをやって何になるんだ」と思えば地獄のように苦痛であるし、「頑張って勉強すれば成績は上がり周囲から認められる」と、先を見通せればモチベーションも上がりやすい。体も弱くスポーツで目立つことのできない私は、勉強によって目立つことの快感を次第に覚えていった。 また、小学生レベルの勉強であれば、その優

      • 私のペルソナの形成(少年期編②)

        次の日から家庭での猛勉強が始まった。猛勉強といっても、父と一緒に毎朝5時から1時間の予習、日曜日は午前10時から3時間の復習であったが。そんな程度でも勉強大嫌いな11歳の子供には、十分に“猛勉強”であった。病気のせいかそれまで過保護気味に育てられていた私はむろん抵抗もした。しかし担任が訪問した折のこと、そして泣く母の姿も未だ脳裏に新しかった私は、最終的には納得して机に向かうようになっていった。この父との勉強が、様々な意味でその後の私の人生にとてつもなく大きく影響し、40年以上

        • コロナ禍がもたらしたモノ・コト~その10~ ⇒ 私のペルソナの形成(少年期編①)

          「コロナ禍がもたらしたモノ・コト」というテーマで綴ってきましたが、いつしか私の生い立ちを通じて私のペルソナが形成される過程へと話が移っていたので、題名を「私のペルソナの形成」に変更します。ただし、筋としては「コロナ禍が~」からつながっています。 ※ペルソナ:その人の人格の最も外側にさらされている部分。いわば個人が持つ公的なパーソナリティのこと。「ユング心理学の世界」(樋口和彦)参照 少年期、青年期、社会人初期、転職、独立起業編とつづき、最後は後天的に形成されたペルソナによ

        私のペルソナの形成(少年期編④)

          コロナ禍がもたらしたモノ・コト~その9~

          当時(昭和50年代)杉並区は「東京第三学区」に含まれており、いわゆる受験戦争の最激戦地であった。その上私の生まれた昭和42年は「丙午(ひのえうま)」の次の年であり、迷信に従って前年に出産を控えた大人たちの影響もあり、出生ラッシュ。分母(子供の数)は増えても分子(一流校の合格者数)は増えないので、自ずと倍率は上がって競争は激化する。子供の意思に関係なく、「学歴至上主義」の親たちにとってのプレッシャーは高まる一方・・・という時代的タイミングでもあった。 3年間義務教育をまとに受

          コロナ禍がもたらしたモノ・コト~その9~

          コロナ禍がもたらしたモノ・コト~その8~

          ところで、前回お伝えしたような気づき、「仕事もプライベートも、自分の人生のいかなるシーンにもしっかり向き合うことで、人生は真の充実と幸せに向かう」という気づきに至るまでの私の人生はどんなであったか?以降、それについて触れていきたい。正直、とても恥ずかしい人生だ。しかしコペルニクス的転回のインパクトをお伝えするには、私の人生の負の部分をお伝えするのが最も明快な手段と思い、あえて披露する。 幼少時、私は重い喘息を患っており、8歳~10歳までの3年間を親元から遠く離れた病院で過ご

          コロナ禍がもたらしたモノ・コト~その8~

          コロナ禍がもたらしたコト・モノ~その7~

          ※前回の投稿は「その5」のはずでしたが、うっかり飛ばして「その6」としてしまった!今さら戻れないので、今回も「その7」で行きます。「その5」は永久欠番ということで…。 結局、仕事をしている自分もプライベートの自分も、同じ自分の人生を生きている。にもかかわらず、仕事に正面から向き合わず、できるだけ楽をしてプライベートを充実させようという人生が、トータルで上手くいくはずなかったのだ。こんなごく当たり前のことに30代半ばまで気づかずにいた。気づき、仕事と向き合うようになってから、

          コロナ禍がもたらしたコト・モノ~その7~

          コロナ禍がもたらしたモノ・コト~その6~

          大学を卒業し新入社員として勤めていた時、仕事に対してまったく価値や魅力を見出していなかった。そのときの毎日の楽しみはアフターファイブであった。やがて少しずつ仕事の意味を考えるようになり、仕事に価値を感じ始め、自分の仕事が評価されることの喜びも知るようになった。すると、人生における仕事のウェイトが高まった。さらに、自分の仕事が社会にどう貢献するのかを考えるようになっていったとき、人生の時間の多くを仕事にかけるようになった。 人生における仕事のウェイトが高まることと、人生におけ

          コロナ禍がもたらしたモノ・コト~その6~

          コロナ禍がもたらしたモノ・コト~その4~

          職人と経営者の両立という鎖から自らを解放した時、改めて自分は「職人タイプ」だということを自覚した。同時並行的にいろいろなことを考えるよりも、一つのことを追究しているときのほうが、はるかに充実感を得られる。むろん、これまでも薄々感じていたことではあったが、事業拡大意欲という表面的な欲望に覆い隠されていたのだ。 ひとたび自分が追究型の人間だと自覚すると、「では何を追究すればいいのか」ということは、考えるまでもなく心のうちに描かれた。それは、他者が自分で自分のキャリアを描き、その

          コロナ禍がもたらしたモノ・コト~その4~

          コロナ化がもたらしたモノ・コト~その3~

          私が陥った経営の落とし穴、それは・・・事業拡大意欲であった!もちろん、自ら起業したのであるから、事業を拡大していこうという意欲を持つことそのものは、経営者として間違った考えではない。「事業の拡大=社会の役に立つ規模」なのであるから。(そうでなきゃ詐欺!) しかし私は、経営者であると同時に研修講師・企業コンサルタントでもあるのだ。もともと大手の研修会社に勤務する研修講師であったが、会社を作って独立するからには、何物にも縛られず自由にのびのびと自分の特性を生かして、クライアント

          コロナ化がもたらしたモノ・コト~その3~

          コロナ禍がもたらしたモノ・コト~その2~

          緊急事態宣言は解除されたものの、全国的に、いや全世界的に3密を避ける空気はそのまま色濃く世の中を覆い続けた。7月以降、ぽつりぽつりと研修やコンサルのオーダーは入るようになったものの、以前の五分の一程度。キャンセルの際、中止ではなく延期とおっしゃっていたクライアントも、大方が「今年度中はちょっと様子を見たい・・・」となった。それはそうであろう。以前は生保業界で働いていたし、今は教育分野に携わっているが、保険も教育も、重要性は極めて高いが緊急性は“低い”と思われがちな商品の代表選

          コロナ禍がもたらしたモノ・コト~その2~

          コロナ禍がもたらしたモノ・コト ~その1~

          2020年3月上旬までは、余裕があった。創業以来経営は順調だったし、これまでの考え方の延長線上の発想で乗り越えられると思っていた。何社かのクライアント様からも、「うちは研修を中止しませんから」「新型コロナでも感染に気を付ければ予定通り実施できます」等々、力強く温かい言葉をいただいていたからだ。 状況が急変し始めたのが3月下旬。都道府県の中でもコロナ感染者の極めて低い地域のお客様から、研修・コンサルティングのキャンセルが相次いだ。「うちとしてはやりたいんですが、県全体として首

          コロナ禍がもたらしたモノ・コト ~その1~