スピノザの論点2

 今回はスピノザ哲学の応用として感情と苦痛の違いについて私なりに整理してみたい。
 まず最初になぜ感情と苦痛を問題とするのか、その理由を説明しておこう。それは生死に関わるからだ。人は苦痛を避けることによって、死をもたらす害悪から逃れる。だから苦痛と悲しみという感情が等根源的であるとしたら、感情もまた避けるべき信号かもしれない。にもかかわらず、人は喜んで悲劇を楽しむ。これは身体にとって適切な振る舞いなのか? これが問題提起だ。
 感情と苦痛は同じものか別物なのか、と考えてみると似ているようでもあり、違うようでもある。感情というのは英語ではsentiment, feelings, emotionなどになるが、emotionも「かき乱す」emovereというラテン語が語源だから、いずれも身体的接触が語源にあるようだ。「感情」という字にも感覚の感が含まれている。
 だから苦痛と感情は身体的接触として同じもののように思われる。だけど、苦痛は身体で感じるが、感情は心で感じているようでもある。
 ヘヴィメタを聴いて感動したアメリカ人はよく自分の腕を指さしてgoosebumpsなどと言う。コイツらそんなに鳥肌が立つのかと思ってしまうけれど、強い感情で皮膚がザワつくということはあるだろうし、心臓がときめいたり、まあ何らかの身体反応は感情に伴うようだ。
 だけど喜びや悲しみの感情がすべて身体的接触かと問われれば、それは違うようだ。音楽や絵画、小説などの芸術によって感情が生じるのは、聴覚や視覚による身体的受容があるわけだから、ギリギリ身体的接触によって生じたと言えなくもない。だが記憶の場合は、いかなる身体的接触がないにも関わらず、喜怒哀楽の感情が生じることもある。

 感情と苦痛のこの漠然とした一体感と違いを明晰に説明しているのはスピノザである。それによると感情も苦痛も両方とも身体的刺激だけど、感情が鳥肌のように全身的刺激であるのに対し、苦痛はピンで刺したように局所的刺激だという違いがあるとしている。
 それは確かにそのとおりだけど、スピノザの独自性は、感情は全身的刺激であるがゆえに生死に影響しないとしている点にある。なぜならスピノザの死生観によると死とは身体の構成関係が変化することだからだ。全身的刺激は、身体の構成関係を比例的に維持したまま同一にとどめる。だから感情という全身的刺激によって死に至ることはないわけだ。だから安心して悲劇を楽しむことができる。
 これに対し苦痛や快感は身体の局所的刺激だから過度になると身体の構成関係が変化してしまい、死に至るのである。苦痛だけでなく過度の快感もまた不摂生として身体の破滅を招くのである。
 だからいくら悲しんでも死ぬことはない。無神経な言い方だけど、我が子が亡くなった悲しみが死をもたらすのではない。悲しみに耐えきれず自殺する時の局所的苦痛が死をもたらすのである。「ベニスに死す」のアッシェンバッハはコレラで死んだのであって、旅立つ美少年との別離による悲しみによって死んだのではない。ゆえに「傷心」とか「悲傷」という言葉は感情と苦痛を混同する危険な言葉だと思う。
 これで感情と苦痛の違いは分かったが、身体的接触のない記憶によって感情が生じるのはなぜか?

 スピノザは記憶については論じていないけれど、表象についてはそれを身体への刻印として捉えている。つまり外部の物が身体に接触して身体が凹むと、外部の物が身体から離れた後でも、身体の凹みによって、あたかも外部の物が存在するかのように捉える。それが表象だというんだな。
(スピノザの説明では身体の流動的部分と柔らかい部分が二層になっていて、外部物体が上から押しつけて離れると、柔らかい部分の凹みに流動部分が接触するわけだ。この説明を読むと、私はフロイトのマジック・メモに関する論文を連想する。つまり柔らかい部分が蝋盤で流動部分がビニールシートだ。マジック・メモはシートを剥がすことで書いた文字が消去できる。ちなみにフロイトはエチカを愛読していたらしい。)
 このスピノザの表象概念をそのまま記憶にあてはめると、記憶は感情だけではなく苦痛ももたらすことになってしまう。それは事実に反する。なぜなら記憶は苦痛(局所的刺激)ではなく感情(全身的刺激)だけをもたらすからだ。幸いにも。
 スピノザでさえ論じていないことを、私ごときが考えられるわけもないんだけど、思弁をたくましくして言えば、問題を逆にみる必要がある。
 つまりなぜ記憶が感情をもたらすのかではなく、なぜ感情が記憶なのか、これである。記憶が苦痛ではなく感情しかもたらさないのは、感情しか記憶していないからだ。そのことは感情が元々記憶以外の何物でもないことを意味する。感情は一定の幅をもつ体験において生ずるからだ。
 つまり様々な局所的な身体刺激が一定の幅をもつ体験により記憶として蓄積されると、それらは局所的刺激の集合として全身的刺激へ生成されるのではないだろうか。だから感情は記憶によってのみ生成されるのである。感情が心と関係しているのは、感情が記憶だからでもある、と私は思う。

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