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ナラティヴⅡ-1.社会的・文化的・言語的な影響を受けた私たちの語り

読書会のメモ「ナラティヴ・セラピー・ワークショップ BookⅡ」 第1回

昨年(2022年)12月に出版された国重浩一さんの「ナラティヴ・セラピー・ワークショップ BookⅡ」。
昨夏「BookⅠ」の読書会を終えていて、今回「BookⅡ」の出版に合わせて再開。毎月1回1章ずつを目安に進めていく仲間内での読書会の備忘メモとして記していこうと思います。
今回は「第1章 社会的・文化的・言語的な影響を受けた私たちの語り」に取り組んだ2023年1月9日(日)開催の第1回について。
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◆流れ◆

開催日が年初だったこともあり、チェックインで出てきた「新年に『おめでとう』と言いたくない気持ち」の話から始まった。
それを受けて、アメリカにおけるハロウィンからクリスマス・ニューイヤーへの一連の流れ、日本のお正月の起源など文化的な背景に話が広がる。
書籍の内容を追いかけていくというよりも、それぞれが第1章の各節の内容を意識しつつ、自由な対話を展開しながらつなげていくような流れになった。

◆印象に残った言葉たち◆

以下、出てきた話題の中から印象に残った部分を備忘的に書き出しておきたい。

●文化的な影響として
「社会の価値観に縛られた私」が子どもを育ててきた。出来ることならやり直したい。当然ながら、自分が思う方向には育てられない。

組織の中では、こうしたものごとの背景などプロセス面の振り返りの時間を設けないことが多い。定性的な効果は語られるけれど、定量的に語れないため伝わらない。
定量的なものでしか伝わらないのはどうしてだろう?
そこに何か無意識の前提があるのかもしれない。

●自信とConfidence
他者との比較からの根拠が必要な「自信」に対して、「Confidence」はやれそうな気がするという根拠のない自信や自己効力感のような感じがする。それはどこから来るのだろうか。

大きな意味での分断されていないことを感じる「つながり」ではないか。

人との「つながり」は諸刃の剣の面もある。組織のためにとなると抑圧的な面が生じてつらい思いをすることも。つながりゆえに人が大変な目にあってしまう。
関係がこじれると居心地が悪い。会いたくない。そのために、あえて正月に仕事を入れる人もいる。

経験から自信をつくろうとする人もいるが、他者との比較での優位性に根拠を求めるケースも多く、その場合は本当の意味での自信にならない。

他者から褒められた時に、自分をディスカウントして「いえいえ、そんなことはありません」と相手のことばを受け取らないこともある。自信の無さからの謙虚さに映ることもあるが、背景に向上心があって謙虚な言動になる場合もある。

●その他
一人ひとりは生身の人間。他者の眼を通して、自分を温かく見ることができる

人は関係の中で生きているが、人との関わりでつらい思いをすることもある。互いに迷惑を掛けながら存在している。

「日本人は・・・」「日本の文化は・・・」とその瞬間の断面で語りがちだが、固定的なものではなく動いて変化している。
また、人も常に成長の過程にあり、変化し続ける。その瞬間の断面を見るのではなく、どんどん変化するもの、文脈的な存在と捉える。

◆所感◆

自然発生的に、読んできていることを前提に書籍の内容を取り上げつつ進む対話の場になったことは興味深かった。

書籍の内容理解がしっかりできていることが前提になるのかもしれないが、人それぞれ捉え方も理解の深さも違うわけで、さらには勘違いや捉え違いしているところもあるだろう。
そうした異なる捉え方や勘違いも、場に出ることによって触媒となって、その場に新たな物語を紡ぎ出す。
勘違いが新たな意味の流れを生み出すというD.ボームの「ダイアローグ」の言葉を思い出した。

社会文化的な背景からの影響については、ホフステードの異文化理解の「6次元モデル」に通じるものを感じた。入り口は違っても、突き詰めていくと同じような見解に至るのは興味深い。

また、私たちは、ものごとの一断面を切り取って、あたかも固定したもののように語ることが多々あるが、ものごとは常に動いていて変化している動的なもの。その中にある私たち自身も文脈的存在であるという理解が、場で共有された、と感じた。
「常ならず」という「諸行無常」に通じるような気がして、そうした感覚が、わずかな時間で共有されることに感慨を覚える。

◆要約◆

終了後に、ふりかえりを兼ねて、一節ごとに要点を整理して、さらにそれを要約してみた。私というフィルターを通しての捉え方なので、著者の国重浩一さんの意図と同じではないだろうが・・・。

私たちの<常識>は、属している社会文化的習慣や規範などから大きな影響を受けている。しかし、その文化圏の中では、<普通><当たり前><当然>のこととして深く考えずに何の疑問もなく実践活動しているので、そのこと自体をうまく認識できない。
つまり、自分がどのような存在であるのかについては、常に見えにくい。

<自信>と<Confidence>、小学校への入学、整列すること、「先生の日」、期末テスト、生徒や先生の不登校、なまりのある英語などを例に挙げて、丁寧に分かりやすく語られている。

こうした<普通><当たり前><当然>といった<常識>に、違和感を感じ「馴染めない」「当たり前のことができない」と、「問題」が生じる。
それを個人に帰属する問題と捉える個人主義的な発想に留まる限り、「問題」は再生産され続ける。
そして「問題」とされる個人は、心理的に厳しい状況に置かれる。

そこから離れ、「人を文脈的存在として捉える」(デヴィッド・パレ)ことを体系的に伝える試みが、はじまろうとしている。

「ナラティヴ・セラピー・ワークショップ BookⅡ」(国重浩一著)第1章の筆者による要約

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