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体を整える、平静である、という視点

こんにちは。現在めんどくさい研の班長辻本です。
毎日モニタの前でコン詰めてる方、席を立ったついでに手足をよく動かしてくださいね。そのうち伸ばし方を投稿しようと思います。

私の話で恐縮ですが、ここのところの「めんどくさいなぁ」という状態が変わってきたら、おそらく次は「やる気研究班」になると思います。「何をやってもダメ」と「超できる」が交互にくる的な。私にはそういうサイクルがあるからなのですが、みなさんにもなにかしらそういうサイクルありません? 自分の体のサイクル(波)と他の人のサイクルとが合う合わないが少なからず人間関係を作る一部になっているかと思われます。

どんな時でも自分の平静が基準になる

私はウツ抜けと言われていることは「何年かごとの大きな波の下降〜底辺にいた人が上向きになった」ことだと思っています。体はなんとか乗り越えようとしているので、ある程度時間が経つと、結果そこから抜けた状態になります。波は高低で表現しますが、その低い位置になる時に、それまで溜まっていたカラダ上の不満が一気に出てきて、いったん体はふてくされ状態になるのだけれど、だんだんと立ち直っていく(立て直していく)、という順です。
体はいつも次のために仕事をしています。だからウツウツしている時、本人が長い目でみて焦らないでいられるのが一番です。そして本人がそうできるよう、そばにいる人がその人をかなり長〜〜い目でみる必要があると思います。放っておくのではなく、かといって関わりすぎもせず、いい塩梅の関係が大事です。もしそばにいる人が一緒にテンパっているとなかなか難しい状態になるというのは簡単に想像がつきますね。
ですので、その時テンパっている人が自分でも相手でも、自分を平静に保つということはとても大切になってきます(自分にとっても相手にとっても)。

場の気配の形成への関与

テンパるとだいたい目先のことしか見えなくなります。なんとかその場を過ごした後、落ち込んだら落ち込みっぱなしで全部悪い方向に考えるとか、できない自分を卑下するとか、何もしたくなくなるとか、悲劇の自分にひたるとか、逆に、何かあれこれ試してみないことには気が済まないとか、他人の存在おかまいなくなんでも自分の都合の良いように解釈するとか、他人のせいにするとか、他人を振り回すとか、他にもあるかな? 人によっていろんな出方があると思います。

そうしたらいかんと言っているわけではないのです。よいもダメも含めて自分全開なのは「存分に生きてる!」ってことのあかしです。でも、その中で平静でいる体を保てたら、自分が関わる場が変わってくるのも事実です。

大勢がわしゃわしゃしている中、誰か一人落ち着いている人がいるとします。その人が行動するとその人を起点として落ち着きが広がることがあります。逆に一人わーわー言っている人がいると周りがだんだん落ち着かなくなってくる時があります。こういう対比で考えれば、人の状態が周りに影響をもたらすということがわかります。こういうことは普段ほとんど意識しませんが、必ずそういう関係が生まれては解消されを繰り返して、その場の気配というものを作り出していますし、自分の存在をいくら消しているつもりでも消そうとしているという形で関与し続けているのです。

イメージしてみてください。大きなグループなら「別に私がやらなくてもいいじゃん」でもそのグループが保たれる力はあるかもしれません。ところが、小さな家族単位くらいのグループならどうでしょう。構成員全員がテンパっていたり落ち着かせる人が誰一人いなかったら、それは結構大変な状況なのだと思います。今はテンパっている親の面倒をみる役が子ども、なんてことも見聞きします。子どもにとっては過酷ですがまだ形は保たれるかもしれません。でももし全員が耐えられなくなったら共倒れしてしまいます。子育てや介護で社会問題として現れ出してきていることを考えると、今は落ち着かせる役目を担う人、気配をリードしていく大人がいない、なかなか大変な時なのかもしれません。

他人の目基準だろうがなんだろうが

あのグループには近寄りたくないとか、逆に、お近づきになりたいと思うことなど、自分の状態とそのグループが醸し出す場の気配の合う合わないがあります。いつも何かを感じ取って行動をしているのだから、じゃぁその感じ取る自分の状態はどうなんだろう?と自分の体に落として考えていければいいのだと思います。それができれば「これまで他人の目が基準だったなあ」ということがわかると思います。

その場の空気を読んで「思ってもないけど他人に合わせるワザ」が「できるできない」を世間一般は気にしますね。これこそが「他人の目基準」ですよね。

他人の目基準で行動しろよ、という世間的な圧力は、元はみんなが自分基準で行動しすぎだからだんだんと形成されていったものと考えると合点がいきます。元からそういう圧力があったわけではないのです。みんな自由に好き勝手に生きているからこそ、社会から要請を出す形になった、ということです。

人間はバランサーです。人はやりすぎで過剰になる傾向があり、過剰のあとは反対方向に過剰にすすみがちです。空気を読む社会も行くところまで行ったら反転をはじめます。今の社会の要請は「多様性を認めろ」ですから、とっくに反転は始まっています。でも全てがガラリと変わるのではなく徐々に変わるものなので、まだ行き過ぎ傾向の影響も残っています。
自分や相手がどう良い方に変わっていくかを考えるよりも先に、自分にクレームがこないことを優先して行動してしまうことは、他人の目基準であると同時にテンパっていて目先が狭くなっていることのあかしです。もともと自分を守るためにやっているわけですから、結局のところ好き勝手行動しているのと同じなのですが。動かされているようでいて自分で動いているのです。KYだろうがことなかれ主義だろうが関係なく、自分の状態は場を作っているわけです。そこからはどうやっても逃れられません。

平静な体を保つことは社会の健康につながる

大きな声を実際に出して自分の主張をすることも、社会の不正を正そうと声を上げることも時に必要ではあります。その声は目に見えるカタチまでになった主張です。

例えば選挙を例にあげますが、出馬している人が何を訴えているかを知ることは必須として、その人の状態はどうか、そばにどれだけ落ち着いた体を保っている人がいるか、そういう視点を自覚的に加えるだけで、同じ主張をする人が複数人いても、それぞれから違うものを感じ取れます。

つい口先だけでいいことを言ってしまうのか、マーケティングを駆使してよさげな雰囲気を醸し出せば共感が得られると思っているのか、その人(そのグループ)は何を見ているのか、目の前のことなのか未来なのか、さらにその奥にある欲求はどんなだろうか、名誉なのか保身なのか承認なのかお金なのか、心底他人のために行動できるのかやっぱり自分と自分の周りのことだけが大事なのかどうかなどを“自分を基準にして”感じ取っているものなのです。

感じ取る能力は当たり前に誰でも持っていて、その能力の敏感さ・鈍さというものは体の状態に深く関わってきます(ここではあえて・わざと・確信的に、「心の状態」と言いません)。一番大事なことは、感じ取る側である自分の状態です。今このご時世だからこそ「自分の平静を保つ」「自分の体を整える」という視点は社会を形成する一員の嗜みとして必要なのだと思います。

空気を読め・空気なんて読まなくていい、がんばれ・がんばらなくていい、とか、そろそろそういうことを言ってる段階じゃないんじゃないかな、と感じているところです。社会全体で次の段階に進みたいですね。

以上、大きな話でした。

自分で自分の体を整える方向性

自分の体の波に話を戻します。自分の体の波の高低のことを整体では高潮・低潮と表現します。高潮=いい・低潮=悪いではありません。そして波は自分では変えられません。「今低潮だから、高くするにはどうしたらいいか」という問いを立てて行動しても無駄に終わります。波は、生きている(死に向かっている)ことの勢いの「一つの見方」であり、意識的にどうこうできないいのちの勢いを「波」という表現に落とし込んだものです。

波の高低は自力で変えられないと聞くと「なんだぁ、やることないのかぁ」とがっかりするかもしれませんね。そうはいってもやれることはあるんですよ。整体では波の変わり目を体を整えるチャンスとして捉えています。その時にその体が整う方向を引き出せれば体は整う方向にさらっと進むのです。
…と聞いたら今度は「それじゃあ早速誰かにやってもらわねば!」と思いましたか? でもそれは「あなたの平時の体がどんなかを知っていて、体の変わり目を見抜くことができ、それをチャンスと捉えて的確に対応できる人がいれば」の話です。一見さんでパッと店に入って初対面の相手にパッと施術する、ということでもし体がうんと変わるならば、それはたまたまその人が節目だっただけの話です。する人もされる人もラッキー。運も実力のうち、ではあるのでそういう変化もないとは言えませんけれども。

こと体のこととなると、なぜか他人(もしくは何かよいもの)になんとかしてもらうことが生まれた時から「当たり前」の社会になってしまっています。本来は、自分の健康は自分で保つものなのです(コントロールするという意味ではありません。この辺のことはまたおいおいに)。私は、その原点に立ち返って、自分で自分の体を整えていくこと、平静な状態に保つことを、私の先生から勉強したことを実践して伝えていきたいと思っています。

(体から考える勉強をもっと深めたいなと思う方がいらしたら、ぜひ野口整体の道場へ行って先生と出会って、自分の体の自然に出会ってください。書籍やネットだけではわかったようでわからないものです。本物の実践に出会いましょう)

どんな時でも自分の健康を自分で保っていこうとする大人が増えたら、子どもたちは丈夫に育つと思いませんか? 今の子どもは弱いか強いかは私にはわかりませんが、どんな子どももいつでも健康であろうとしています。それは生きる力です。その健康であろうとする姿をきちんと見守れるよう、自分を整えていく大人が増えたらいいなと思っています。私がやれるのは一緒にそう考えていくためのお手伝いでしかありませんが、少しでも今必要としている人を手伝うことができたらいいなと思っています。

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おまけ(写真の説明)

写真は近所のアパートの入り口のツバメたち。壁は外装工事のためにビニールでカバーされています。ツバメ手作りの巣はどかされてしまったのか壊れてしまったのか。はたまたツバメがくる前から置いておいたのか。人の手作りの木の巣箱があります。こういうのはだいたい人間の都合です。それを使って子育てをするツバメはたくましいです。しかしいくら人間都合でツバメの子育てを左右したとはいえ、なんだかんだで替えを用意する人の優しさも感じました。美談と言いたいのではなくて、ほんとなら残念な状態ではあるのだけれども、それでもなるべく修復しようとするところに、生き物の力(ツバメにも人間にも)があるのだと思ったのでした。

数多くの中からここに出会ってくれてありがとう!