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『雲と石』、不安の時代に

不安は、可能性に先立つ[それ以前の]可能性としての自由の現実性なのである。(セーレン・キルケゴール「不安の概念」より)

無垢としての無知であったアダムが、神に知恵の実を口にする事を禁じられたその時に、可能性としての自由が、まだ知識を得る以前のアダムの内に不安として立ち現れる。
知識と自由の奥底には同時に不安が存在し、不安こそが主体的な現実存在としての人間を基礎付けるものである、とキルケゴールは述べる。

「なしうる」という可能性だけが、無知の高次の形式として、不安の高次の表現として、そこに存在するのである。(「不安の概念」より)

大槻香奈は個展『雲と石-2021-』のステートメントにおいて”目に見えない心の在処を探したい”と語る。
そしてこの新型コロナという不安に対し"強制的に身の危険をもたらすものが内側に侵入した時、そこにあるかもしれない「心」の形を確かめられそうな気がしてくる。”、つまり不安という概念によって逆照射されることで、心の在処を探ることができる可能性を探る。

大槻は個展『雲と石-2021-』において「雲」を光を受け止める器として、「石」は人の心を受け止める器のメタファーとして捉え、また、これまでに描き続けた「から」概念を拡張させ移ろいゆく人間の心を器的に捉えることで、”心の存在する場所に触れることができる装置としての絵画”を模索するのである。

このテキストではコロナ禍という不安の時代において大槻が取り扱う概念の見取り図を書くことで、”心の存在する場所に触れる装置としての絵画”の機能へのささやかな補完を目指す。
ここで述べることをより雄弁に語るのは、そしてそれ以上の可能性を示しうるのは作品そのものに他ならない。その声に耳を傾けるための案内として、大槻の提示する問いの把握を試みたい。




○『雲と石』


雲は移り変わりながら太陽の光を受け止めている器である。
そこに捉えどころのない人の心をみる。
(大槻香奈『雲と石-2021-』展「雲」ページより)


「雲」は常に移ろいゆくものであり定型を持たない。物理的には水蒸気の集合体であり、光の反射によってのみ視認できるその姿は不安定なものである。雲それ自体が移ろうものであり、同時にそれが「光を受け止める器」として解釈される。光もまた定型を持たないが、雲によって受け止められることによってその存在を我々の視覚に示す。雲を目にすることで光の存在を視ると同時に、光によって雲という器の存在が浮かび上がる。


石は人の意志を受け止める器である。
かたく決意しぶれないこと、勇気を持つ人の心をそこにみる。
でも留まるだけではなく、転がることも知っている。
(大槻香奈『雲と石-2021-』展「雲」ページより)

「石」は留まろうとするもの、不変なるものの象徴である。だが現実的には長期間風雨にさらされること、または転がることによってほんの僅かに形を変え続けるものでもある。
またある種の石は人間の意思を受け止めることによって価値があると信じられ、貨幣経済システムの中に組み込まれていく。ここで生じる価値の根幹は信じる心の集合でありそれは同時に紛れもなく虚構である。仮に石の価値に美的判断が伴うとしても、その虚構の中心は人の心から経済システムに取って代わられて久しい。

「雲」と「石」はそれぞれが移ろうもの/留まるものとしての特性を備えているが、どちらも不定形な何かを受け止める器として機能する。この「雲」と「石」における機能が「心」を受け止めるうつわである可能性、あるいは「心」そのものが器である可能性として描かれるのである。



○変遷する「から」概念


大槻は自身の作品における主要テーマとして「から」を挙げる。
「から」は「空・殻」として空虚な容れ物として捉えられ、その「から」的なモチーフとして少女や蛹、人形、また精神的な拠り所としての家や山が描かれ、日本的な精神性における「から」概念を描き続けている。

河合隼雄が著書『中空構造日本の深層』において指摘した日本社会における「中空的な」精神性やロラン・バルトが『表徴の帝国』において提示した空虚さと同質の問題を「から」概念において提起するのである。

例えばバルトの場合では著書『表徴の帝国』(1970年)において、西洋社会が「意味の帝国」であるのに対して、日本は「表徴の帝国(L’Empire des signes)」であると記した。
内容物よりも重視される箱や包み紙などを、物事を意味で満たすことを拒否する記号として捉え、それを日本文化の特色として述べる。
また、東京の地図を見て中心に「皇居」という物理的に空虚かつ、実権を持たないシンボルとしての天皇が存在していることを肯定的に描きだす。

ここでバルトが見出した、「中心を意味で満たす姿勢への拒否」つまり中空性を保つことでバランスを保つ日本社会のあり方は河合隼雄が『中空構造 日本の深層』にて述べた内容と接続されるものである。
河合は例として日本神話の構造に中空性を見出す。例えば古事記においてアマテラス・ツクヨミ・スサノオのうち、中心に位置するツクヨミに関する物語がほとんど記されていない。またタカムスヒ・アメノミナカヌシ・カミムスヒにおいても同様にアメノミナカヌシが無為の存在として扱われる。
中心を空虚に保つことでバランスを維持しようとする精神性をこのような神話構造に見出し、近現代の日本社会における問題点へと接続しようと河合は試みる。中空であるがゆえに中心に不条理や悪が入り込みやすい可能性、または外来文化が仮の中心として据えられた場合に、カウンターバランスを取る何かが取り入れられるまでは、統合がうまく機能せず乖離状態を引き起こす点を指摘する。(この河合が指摘する乖離については後述を参照。)

大槻が描く「から」とはまさにここで語られる「空虚さ」あるいは「中空性」であり、そこに問題点と可能性を同時に見出す。主体性を失った虚ろな存在としての個人、または中心を失った社会における責任や力点の不在が中空性の大きな問題点であり、あるいは日本社会に本来的に備わった性質に対し外的要因によって引き起こされている乖離である。
対して、中空性によって得られる積極的な可能性として、中空性を自覚し、移ろいゆく仮の中心性を個人という器に取り入れ続けることによって均衡を得ること。その結果として個々の主体性を取り戻してゆく可能性を「から」概念を描くことによって示し続けてきた。

そして自己という空虚なうつわに属している「心」という器を認識するために、この不安の時代における「から」の異なる捉え方として、今回示された新たなテーマが「雲」と「石」である。


○「器」概念


ここまでに述べている「器」とはこの語から一般的にイメージされる食器のような物体だけではなく、中空性を持ち、何かを受け入れる空間を保持したもの、もしくはその概念全般を指す。
また「うつわ」の語源は「ウツ」という語から派生した「ウツハ(モノ)」とも言われる。
「ウツ(空、現、虚、移)+ハ(端)」、言い換えるならば「現実と空虚を移ろう端」が「ウツハ」という語における複合的なイメージである。
この概念における重要な点として「うつわ」の外側/外殻の部分と、受け入れるための空間のどちらもが等しくそのあり方を定義することである。
例えばコップであれば、ガラスや陶磁器によって形作られた物体そのものを私たちは見ながら、機能的な本質は注がれた液体を受け入れることにあることを知っている。外側のフォルムだけでなく、内側の形がその機能における中心であり、また液体によって満たされるべき空間そのものが必要とされている。現実的な物体と、機能的な本質を司る中空が連続的に存在するもの、それがここにイメージされる「器」である。さらには、何もない空間の中に、仕切りをもたらし中空性という機能を作りだすものが「器」である。空間と物体、空虚と殻が移ろいながら現象する。
この「器」の双方向に移ろう連続性は「から」概念における統合の可能性、または「から」概念に付随する機能として大槻作品のコンセプトにおいて重要な位置を占める。


○乖離について


人間とは心と体の綜合であったが、しかし同時にそれは「時間的なものと永遠的なものとの綜合」なのである。(キルケゴール「不安の概念」)

近代以降、「心」と「体」は別個のものとして、統合されるべき分断されたものであるという前提を自明のものとして受け入れて生きることを我々は強いられている。脳科学の進歩によって電気信号そのものの集合体として、あるいは入力/出力と言った関係性の連続としての意識が可能性として示され、今後の脳科学や自然科学の発展によってその分断/統合は”科学的に”自明のものとして解決される可能性もある。
しかしながら社会という現実に生きる我々は実践的に仮定される「心」と「体」のような二項対立の連続によって、乖離を心身に感じ、または価値の対立によって心のうちに乖離を覚えることを常としている。
日本社会の乖離に関する指摘として河合は「中空性」のシステムについて以下のように述べる。

我が国が常に外来文化を取り入れ、時にはそれを中心においたかのごとく思わせながら、時がうつるにつれそれは日本化され、中央から離れていく。しかもそれは消え去るのではなく、他のものと適切にバランスを取りながら、中心の空性を浮かび上がらせるために存在している。(中空構造日本の深層)

しかしながら一時的に仮の中心を取り入れることによって起こる困難も同時に指摘する。

このことは、日本人特有の中心に対する強いアンビバレンツを生じしめることになる。つまり、新しいものをすぐに取り入れる点では中空性を反映しているが、その補償作用として、自分の投影した中心に対する強い執着心を持つ。(中略)しかし時が来てその「中心」の内容が変化すると、以前に中央に存在したものに対する関心は消え失せ、新しい「中心」に関心を払うのである。

さらに河合はこのような中空構造において、”中央に理不尽が侵入を許しやすい欠点”も指摘する。
社会構造そのものが抱える中空性の問題点と価値の対立、そして個々人が仮の中心性として関心を向ける思想の対立によって、社会構造そのものと個々人の内部どちらもが乖離を抱きうる時代である。
また、高度に情報化されたこの社会においては仮の中心となる思想や価値観が目まぐるしいスピードで移ろいながら個々人や社会の中心において入れ替わり続けていることも想定される。

乖離は社会構造そのものと個々人の内面というレイヤーの両方に存在し、個々人の抱く乖離が集合した結果としての社会像があるとするならば、「器」的に捉えた中空構造を媒介に個人の乖離と実存の問題に立ち返ることが、さらにその統合を目指す自己における様々な関係性に対する均衡を目指すことが、『雲と石』における大槻の試みとも言える。



○仮の中心性としての「石」と「雲」


ここまでの論を踏まえて今一度「石」と「雲」に立ち戻る。
今回、陶芸の技法を用いて「石」を生み出す陶芸家・木ノ戸久仁子の作品である「稀晶石」をモチーフとして、大槻は「石」とカテゴライズされる作品群を生み出した。
この稀晶石は今展覧会における仮の中心性のひとつである。「意思を受け止める器」としての石を描き出すことによって「心」のイメージを具現化しようと試みる。心の形であり同時に器でもあるこの石は、留まるものあるいは前項にて引用したキルケゴールにとっての”永遠的なもの”としての表象である。同時に丸みを帯びて浮遊する石たちは、移ろうものとしての「雲」でのイメージと重ねて描かれる。”時間的なものと永遠的なものの綜合”と同時に可能性としての乖離が重層的に内包されている。
既に述べたように、光という不定形なものを受け止める不安定な器が「雲」である。
「石」が可能性としての移ろいを暗示するのに対し、雲は既に移ろうこと・変化すること、中心性を持たないことを前提とする「器」である。受け止めた中身、器そのもの、そのどちらもが瞬間に失われる存在だ。
積極的に中心性を移行させ続けることを前提とする「雲」という器と留まることを前提とする器としての「石」が重なるときに、器の中身だけではなく、それ自体が器であるところ、全てを器的に捉えることで生まれる関係性によって、移ろいとその連続を積極的に肯定すること、その器同士の関係性において、主体性を再獲得する可能性を『雲と石』において、これまでに描き続けた「から」概念の延長上に示すのである。


○主体的真理と均衡


この『雲と石』は全てメタファーであり、実践的な答えではない。具体的な行為や心の在り方そのもの、あるいは統合の仕方そのものを示すものではない。しかし「雲」と「石」という「器」、その関係性によって変遷し続ける中心性によって均衡状態を獲得する可能性を暗示し、またお互いにうつわ的な存在者同士が、移ろい続けながらも均衡を獲得すること、近しい距離でのバランスが多面的な「器」という機能によってもたらされうる可能性を指し示す。

「私にとって真理であるような真理を発見し、私がそのために生きそして死ぬことを願うようなイデー(理念)を発見することが必要なのだ。
(キルケゴール「ギーレライエの手記」)

キルケゴールにとって真理とは「どのように生きることが真理であるのか」と自己生成的に問い、主体的に問いの中で生きることによって得られる真理であり、そのような主体的真理だけが絶対的真理であった。

「から」という概念を通じて中空性と主体性の均衡を問う大槻香奈が、新型コロナによる不安の時代に「心の在処」を問うことはキルケゴールの述べるところの主体的真理を思い出させる。自己生成的に問い続けること、移ろい続ける中心性とそれに伴う「器」という見方によって、主体的真理とその均衡の下に生きることは可能だろうか。

この大きな問いのために派生する様々な問いについてここで全てを述べることは不可能であり、大槻の描く「から」「器」に関する論考は多くの課題と共により横断的に考察されるべきである。
まずは不十分ながらも、入り口の見取り図として筆を置きたい。
何よりこのテキストが大槻作品の鑑賞における何かのきっかけになれば幸いである。


2021年5月
青山泰文

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